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その年の春は雨が多かった。
今宵もまた、強い雨が降り続いていた。
深川の岡場所もこの雨では入りはまばらであり、客待ちをする遊女が多かった。
遊女の一人、おたえは欠伸をしながら隣で俯く小春にぼやいた。
「あああ、やってられないねえ。ただでさえここんところ、値を下げなきゃ客が来ないってのに」
田沼意次が失脚して後、老中松平定信により、後の歴史で寛政の改革と呼ばれる引き締め政策がとられていた。しかし、それはデフレを引き起こし、改革とは程遠い状況にあったのである。ここ、幕府非公認の遊郭岡場所もデフレのあおりをくらい値崩れ現象を起こしていた。
「ええ・・・」
小さな声で頷く小春。かまわずおたえは喋り続ける。
「こんな晩に来るのは、よっぽど冴えない男だよ」
「いよっおたえちゃん、お久しぶり!!」
格子の外から、赤茶の地味な着物の男が陽気に話し掛けてきた。
「あら、紅平の旦那・・・」
町人風情の風体。髷はそれなりに丁寧に結ってあり、面構えも少し人気の役者に似たところはあるが、どこか垢抜けない二十八、九の男。
「へへ、空言屋の紅平ちゃんが会いに来ましたよ」
おたえは小さく呟いた。
(ああ、やっぱり冴えないのが来たよ)
「へ?なんか言った?」
「う、ううん、なんにも。紅平さん、いつ見てもいい男だねえ」
「へへっ照れるね」
「次の黄表紙本はいつ出るんだい?」
「それがさあ、最近の風紀取締りで、おいらが描くような卑猥本は、お上がうるせえんだよ」
「あらあら厳しいねえ」
「今度お奉行になった石原様も、勇ましいことが好きだからなあ。おや?そちらのコは新顔かい?」
「ああ、ほら小春ちゃん、紅平の旦那に挨拶しな」
「は、初めまして。小春と申します」
紅平はおや、と思った。指を突き、頭を下げる仕草にどこか品がある。
「小春ちゃんか。いい名前だね。よし、今日は小春ちゃんに決定!」
「あら紅平の旦那あたいはあ?」
「へへっ、またね」
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