回転玉座

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真っ暗な玄関、靴を脱ぐより先に壁のスイッチに触れた。 パッと世界が明るくなる。上がり框に足を乗せながら、靴箱に埃が積もっているのに気が付いた。 面倒なので掃除は週末に先延ししよう。 かつて塵ひとつ落ちずに磨き上げられていた家は、母が消えてからゆっくりとくすんで行った。 降り積もる埃。時間のように。 それでも私と父は、別段なんの不自由も無く生きている。 多少部屋が汚れていても、シャツにかかるアイロンが下手で皺が寄っていても、毎日のお弁当がコンビニのお握りになっても、晩御飯何が良い?と聞かれる事がなくても。 ベランダの洗濯物が少し湿っていて、部屋干にして少し異臭を放つかもしれないとしても。 何の不自由も無い。王国を取り仕切る王は不在だ。空の玉座。 それでも私と父がやっていけるのは、やはり母の取り決めた法律がこの家の中に静かに根付いているからだろう。 制服から部屋着に着替えて、台所に立つ。スーパーの袋の中身を、冷蔵庫に移す。 ナスのヘタを削ぎ、皮を剥き、一口大に切り……。 「煮物はね、あまり強火にしちゃ駄目よ。弱火でコトコト煮込むと味がよく染み込から。それから落し蓋にする時には――」 自分が助からないことを知ると、母は猛然と私に家事を教え込んだ。 「わかったから、座ってなよ。指示するとうりにやるから」 「だめだめ。手順は聞くより実際一緒にする方が覚えやすいんだから」 母の最後の半年間。二人で並んで、よく台所に立った。 「玄米はね、お米一合に対してこのカップ半分入れるの。それから水の分量は白米の時より若干大目でね」 形を崩さずにハンバーグを裏返せるようになり、油を怖がらずにコロッケが揚げられるようになり、野菜炒めを焦がさずに彩りよく作れるようになり。 母が最後に私に伝授したのが、玄米ご飯の炊き方だった。
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