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これらが両陣営に和平の機運をもたらし結果、湘水を境界線とし、長沙・江夏・桂陽は呉領に、南郡・武陵、そして一度は奪われた零陵が蜀領となった。
219年、劉備が漢中王を称し、関羽は前将軍・仮節に任じられた。この年、関羽は水陸両軍を率い、息子の関平、都督の趙累らとともに樊城を守る曹仁を攻撃した。曹仁の援軍として、七軍を率いた于禁が駆けつけるが、折からの悪天候により大洪水が起こり、七軍は水没。関羽は船団を率いて攻撃をかけ、于禁を降伏させ、〓徳を斬った。また、このとき魏の荊州刺史・胡修、南郷太守・傅方らが関羽に降っている。関羽は樊城を完全に包囲し、別将を派遣して襄陽までも包囲した。さらに関羽は方々に印綬をばら撒き、魏領内の群盗などが一斉に蜂起。魏丞相掾・魏諷までもが関羽に通じて反逆を起こし、中原は震動。曹操は遷都まで考えたほどであった。
だがそれより前、呉の孫権から関羽の娘に、彼の息子との婚姻の申し入れがあったとき、関羽はこれを断り(「虎の娘を犬の子にはやらん」との発言が『三国志演義』等に見られるが、正史には見られない。ちなみに民間伝説では関銀屏という名前がある )、孫権を怒らせたことがあった。曹操の部下の司馬懿と蒋済は関羽と孫権の仲が悪くなったことを見計らって呉と同盟を結ぶ事を提案し、曹操は呉と同盟を結んだ。これで逆に魏と呉の軍に挟撃されてしまう事になる。さらに孫権は呂蒙・陸遜らに南郡を攻めさせ、関羽に不満を持っていた麋芳と士仁に誘いをかけ寝返らせ、江陵・公安を奪った。一方の魏も徐晃を派遣して曹仁を救援させた。関羽は結局勝利を得ることができず敗走した。呂蒙は関羽や関羽の部下の妻子たちを捕虜にして厚遇したので、関羽の部下達は呉に対する敵対心を失って、関羽の軍は四散した。ついに臨沮で関羽と関平は退路を断たれ、潘璋の部下の馬忠に捕らえられ、斬首された。王隠『蜀記』によれば孫権は関羽の武勇を惜しみ、部下として使いたいと願ったが、側近にかつて曹操彼をすぐに殺さなかったために遷都まで考えるほどの事態となったと言い、諦める様進言したという。
関羽の首は、孫権の使者によって曹操のもとへ送られ、曹操は諸侯の礼をもって彼を葬った。関羽を殺された劉備は怒りのあまり、呉に対して夷陵の戦いを起こしたが、大敗を喫した。
260年、蜀漢より壮穆侯の諡号を送られた。
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