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長門国萩城下菊屋横丁(現・山口県萩市)に長州藩士 高杉小忠太(家禄200石)・みちの長男としてうまれる。
10歳の頃に疱瘡を患う。漢学塾を経て、嘉永5年(1852年)に藩校の明倫館に入学、剣術も学ぶ。安政4年(1857年)には吉田松陰が主宰していた松下村塾に入り、安政5年(1858年)には藩命で江戸へ遊学、昌平坂学問所などで学ぶ。安政6年(1859年)には松陰が安政の大獄で捕らえられ処刑される。万延元年(1860年)11月に帰郷、防長一の美人と言われた山口町奉行井上平右衛門の次女、まさと結婚。
文久元年(1861年)3月には海軍修練のため、藩の所蔵する軍艦丙辰丸に乗船、江戸へ渡る。8月には東北遊学を行い、佐久間象山や横井小楠とも交友する。文久2年(1862年)5月には藩命で、五代友厚らとともに、幕府使節随行員として長崎から中国の上海へ渡航、清が欧米の植民地となりつつある実情や、1854年からの民衆反乱である太平天国の乱を見聞して7月に帰国、日記の『遊清五録』によれば大きな影響を受けたとされる。
長州藩では、高杉の渡航中に守旧派の長井雅楽らが失脚、尊王攘夷(尊攘)派が台頭し、高杉も桂小五郎(木戸孝允)や久坂義助(久坂玄瑞)たちと共にともに尊攘運動に加わり、江戸・京師(京都市)において勤皇・破約攘夷の宣伝活動を展開し、各藩の志士たちと交流した。この過程で、高杉は、頼りになるのは長州の志士だけだとする長州ナショナリズムを形成し、長州藩と朝廷や他藩との提携交渉は、もっぱら桂や久坂が担当することとなる。文久2年12月12日には、幕府の異勅に抗議するため、同志とともに品川御殿山に建設中の英国公使館焼き討ちを行う。また、松蔭の遺骨を小塚原から世田谷に移して会葬する。
文久3年(1863年)5月10日、幕府が朝廷から要請されて制定した攘夷期限が過ぎると、関門海峡において外国船砲撃を行い、高杉は下関の防衛を任せられるが逆に米仏の報復に逢い惨敗する。6月には廻船問屋の白石正一郎邸において身分に因らない志願兵による奇兵隊を結成し、阿弥陀寺(現赤間神宮)を本拠とする(9月には教法寺事件で総監を罷免される)。
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