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男の軌跡が、男の言葉によって、千原の胸に染み渡る。
自分と交わした全ての通話、この国の風景、民衆の声、男の思い。
――そして。
ある少女との出会い。
五日分の生きた記録を聞き終えた時、千原は最後の砦を失った。
辛うじて保たれていた理性が、自分の存在意義が、音を立てて崩れ落ちていく。
「彼はこの国の真実を最後まで記録し続けた。濱口が発見した時、この携帯が固く握られていたのだそうだ」
「彼は、保護されたのでは」
男との最後の通信を思い出す。
大使は携帯を引き出しへ戻し、笑った。
「死んだよ。命懸けで、この国を救ったのだ」
「しかし私も」
「ペルソナ・ノン・グラータ」
解雇の意味を持つ言葉が、大使の口から発せられた。
「お前の行動に対する、外務大臣の判断だ」
千原は獣の如く唸った。
「書記官を辞める気はない! こんな国の政府などに、私の未来をどうこう出来るはずかない!」
わめき散らす千原の鼻面に、濱口の顔が近付く。その表情には、今まで見せた事のない鋭い怒りが込められていた。
「僕の犯したミスは、彼を貴方のような腐った男に近付けた事です。僕は悔い続け、良心の呵責に苦しめられるでしょう」
「新米のくせに何を。私は絶対に戻って来るぞ!」
千原は乱暴にアタッシュケースを投げ付けた。
濱口はそれを拾い、大使へ預ける。
「彼は絶命の間際、近くにいるはずの僕ではなく、遠い母国に住む妻へ電話を掛けた。彼は最後まで、フリーカメラマンとして生き抜いたんです」
独白のような濱口の言葉に、千原は耳を塞ぐ。
「僕は彼のように生きていく。貴方が現れた時に僅かな脅威をも起こさせない、平和な世界を築き上げる」
突如扉が開き、千原は進入してきた制服の男達に拘束された。抵抗を試みるも、鍛え抜かれた腕を解く事は出来ない。
外へ連れ出される瞬間、大使と若き書記官がお辞儀するのが見えた。
千原は絶叫した。
……私は何を間違えたのだろう。私は何をしたかったのだろう。私は。
◆ ◆ ◆
大使館前に停車したパトカーの下に、風を纏った写真が落ちる。それは極東の小さな島国のコバルトブルーに輝く海。
パトカーへと乗せられた千原は、写真へ駆け寄る少女に気付く。
癖毛の少女は大事そうにそれを拾うと、パトカーに振り向いた。
その美しい漆黒の瞳が、千原の視線と確かに交差した。
完
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