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―そうだ、彼女の事……―
既に常識を超えた現状にあって、今の今まで彼女の存在はすっかり頭から飛んでいた。僕は恐る恐る、マスターに質問をぶつけた。
「ここに女性が来ませんでしたか?」
マスターは作業する手を止め、こちらを振り向いた。手には『もう一杯いかが』と言わんばかりにサイフォンが握り締められている。
「さぁ……昨日いらした方かな……」
そう言うと、マスターは再び後ろを向いた。
「もしかしたら……」
マスターは、そう言い掛けて言葉を詰まらせた。天井辺りをボーッと見つめたまま動かない。
マスターの煮え切らない態度に腹を立て、僕はその場でバンッとテーブルを叩いた。埃とも胞子とも附かない細かい粒子がキラキラと光って宙に舞う。
「今日です。今さっきです」
僕のこの言葉に耳を貸す気がないのか、相変わらずマスターは口を半開きにしたまま、天井の一点だけを見続けている。
僕はテーブルに両手を突いて身を乗り出し、マスターに顔を近付けた。ちょうど斜め下から見上げる格好だ。
「マスター、聞いてますか!?」
さすがに今回はマスターもビクッと動いた。よかった、死んでない。
この3分ほどの沈黙が、今までのどんな事よりも怖かった。ほっと胸を撫で下ろす。
マスターはゼンマイを巻き終えたオモチャが急激に動き出す時の様な異様な躍動感を見せ始めた。まるで操り人形の様に首だけが回る。
僕の方に視線が合うと、その動きはピタリと止まった。
「今日はあなたが初めてのお客様ですよ……」
マスターはニヤリと不敵な笑みを浮かべた。
「でもさっき何か言い掛けたよね?」
「いえ……別に……」
「だってさっき……」
言い掛けた僕の顔をマスターが下から覗き込んだ。僕は唾を飲み込んだ。
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