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『いい?今から言う場所に来てくれないかな』
「どこに行けばいいのでしょうか」
『何か書くものある?それとも憶えられる?』
慌てて携帯を放り出すと、ベッドから出てメモとペンを探し回った。
さすがにこの時間、体調も優れない僕にとって、全てを憶える事は不可能だと悟った。携帯の向こうでは、彼女がはっきりとした声で『急いで!』と言っているのが聞こえる。
僕は通勤用のバッグからボールペンを取り出し、メモ代わりに使えそうな裏の白いチラシを古新聞の間から引っ張り出すと、再びベッドの上に正座した。
『いい?用意できた?』
僕はペンを右手に持ったまま、左手で器用にチラシを折って膝の上に乗せた。
「準備できました」
なんだか身代金誘拐犯と誘拐された人の家族の会話みたいにカチンカチンになって緊張している自分が妙だ。
『渋谷区松涛……』
彼女の話す通りにメモを書く。僕はその一つ一つに『うん、うん』と声を出して頷いた。やはり膝の上はちょっと書き辛い。
『いい?ここまで書けた?』
僕は彼女の問い掛けに『はい』と答えた。ミミズが這った様な文字ではあるが、なんとか読める。
『そこにミスティって店があるから、お願い、そこまで急いで来て!』
そう言うと、彼女の話は一方的にプツリと切れた。見ると、通常なら通話時間が『何分』と表示されるはずなのに、携帯の画面は薄暗い時間表示のままだ。
今頃になって気付いたのだが、もしかしたら会話中も時刻表示のままだった様な気さえする。まぁ見間違いって事もあるだろうし、思考能力が壊滅状態だってのも事実なので、その事についてはこれ以上考えない事にした。ただですら不可解な事ばかりなのだから。
僕は洗面所で顔を洗うと、普段着に着替え、さっきのメモを頼りに指定された場所へと向かうため、部屋を出た。
間違い電話かも知れない。だが、なぜか彼女の声に逆らう気持ちにはなれなかった。
どうしてもその場所に行くのは僕じゃなきゃいけないんだ。僕は自分自身では解決出来そうもない、この不思議な感情の元凶を確かめるべくタクシーに乗り込み、運転手に目的地を告げると、車を大通りの西に向かって走らせた。
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