第一章、月と闇の狭間で

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 闇が囁きかける。そうだ、お前にはもはや、何もないのだから――覚悟ならできるだろう?  腰にしていた短刀を男に向ける。覚悟はできた。死ぬ覚悟か――違った。殺す覚悟だった。 「おいおい坊主、反抗するつもりか? 笑わせるじゃねえか。しばらく寝てもらうぜ!」  男の一人が急接近してくる。少年もそれに合わせて短刀を振りぬく。ふらつきを堪えて地を蹴った。 「おっと、危ねえ危ねえ」  滅茶苦茶に短刀を振り回して近づく少年は、それこそ子どもの域を出ることはない。対し、無頼の中で命を生きながらえさせてきた男にしてみれば――。 「がっ、は……」  隙を付いて、少年の鳩尾を蹴り抜くことなど正に容易かった。吹き飛ばされた少年は、仰向けに倒れたまま動けないでいる。  当然の結果だった。空腹も、疲労も、限界をとうに超えていたのだから。精神など、正気を保っていられること自体が不思議なくらいだった。  その上で、加えて男の――それも恐らくは、人を傷付けることに躊躇いのない――攻撃を受けたのだ、意識を手放さなかっただけでも奇跡だった。ただそれは、この少年に続くだろう過酷を思うなら、要らぬ奇跡だったのかも知れないが。 「へっへ、苦労かけさせないでくれや」  放り出された少年のナイフを手に、卑しい表情で男が近寄る。 「少しお仕置きが必要だ、な!」  言って、少年の横腹を蹴り飛ばした。 「おう兄貴、こいつ暴れるだろ? 殺しても値はさして変わらんし、殺しとくか」  冷酷な提案が、さらりと、ふいに少年へと突きつけられていた。対し、兄貴と呼ばれた男もニヤニヤと、少年に見せつけるかのように相槌を打つのだ。目を合わされた少年は、感じなかったはずの恐怖が再燃し始めていたのを感じていた。  自分に向けられた明らかな悪意、確実な「死」が、近づいてくる。怖くなかったはず、生への執着など、あの一言で支えられていただけの、脆弱なものだったはず。なのに、何故――?  なぜ、ここまで恐れる必要がある?  少年の思考を疑問と焦燥が占拠し、前後不覚ともつかない世界の目の前で、男がナイフを振り上げていた。待って、と懇願する言葉は、果たして言葉になっていたろうか。  下ろされる男の手。伸ばされた少年の腕、手、握られた拳、握られた何か。二つの軌跡は、だが決して、もう二度と交わることはない。
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