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「さ、行きましょうか」
耳元で聞き慣れた声。
その声に続くように、雑踏の騒音が耳に流れ込んで来る。
忘れていた人混みの気配を肌が思い出し、沈んでいた意識が一気に現実に引き戻された。
「私の勝ちね」
止めていた足を帰路に向けるマスターが、そう言い残して歩き出す。
急いで後を追いつつ、俺は一度だけ振り返った。
髪の長い女はまだシャッターの前に立ったままだ。
女が何者かは分からない。
本当に幽霊かどうか確かめたわけでもない。
でも俺には、ごねて支払いを要求する気もなければ、女の髪を掻き分けて素顔を確認する気にもならなかった。
賭けに負けたということは、俺が一番よく分かってるのだから。
それはまだ、俺が幽霊という存在と、マスターという人を一割も正しく認識出来ていなかった春の日の出来事。
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