後ろ向きな女

8/8
37140人が本棚に入れています
本棚に追加
/2686ページ
「さ、行きましょうか」 耳元で聞き慣れた声。 その声に続くように、雑踏の騒音が耳に流れ込んで来る。 忘れていた人混みの気配を肌が思い出し、沈んでいた意識が一気に現実に引き戻された。 「私の勝ちね」 止めていた足を帰路に向けるマスターが、そう言い残して歩き出す。 急いで後を追いつつ、俺は一度だけ振り返った。 髪の長い女はまだシャッターの前に立ったままだ。 女が何者かは分からない。 本当に幽霊かどうか確かめたわけでもない。 でも俺には、ごねて支払いを要求する気もなければ、女の髪を掻き分けて素顔を確認する気にもならなかった。 賭けに負けたということは、俺が一番よく分かってるのだから。 それはまだ、俺が幽霊という存在と、マスターという人を一割も正しく認識出来ていなかった春の日の出来事。
/2686ページ

最初のコメントを投稿しよう!