会いたい人

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「馬鹿みたいだ…」 両手で鼻と口を覆う。 押さえていなければ、何かとんでもない事が口から飛び出してしまいそうだった。 わなわなと唇が震え、上唇と下唇が何度も触れ合う。止めようと思うのに、叶わない。 そう、これは怒りだ。 (何に対して?) 「馬鹿みたいだ…勝手に追いかけて、勝手に期待して」 そうだあの人にとって自分は『女郎なんか』でしかなかったのに。 なのに馬鹿みたいだ。 「取り乱して、あの人の前だっていうのに『麟』の仮面を落として…」 全身から力が抜けて、がくがくと膝が震えた。しまいにはぺたんと膝をついてしまう。 そう、これは怒りだ。 (誰に対しての?) 「麟ちゃん…何があってん?」 歩が優しく口の肩に手を置く。 麟はふるふると首を振って… 漸くそれが怒りでなく悲しみであることに気がついた。 「馬鹿か…俺は」 屯所の庭で永倉は未だ地面を睨みながら立ち尽くしていた。 「あんな事言って、傷つけて」 その時やっと、落ちている桃色の花びらが永倉の目に入った。 「桜?」 拾いあげて上を見れば、今さっき自分が麟を押さえつけていた木は桜であった。 「夜桜、か」 恥ずかしい話、 その見事な桜も目に入らないほど夢中だったのだ。 (何に?) 「…言えるわけねぇじゃん」 汚い自分を見られたくないから帰れ、なんて。 「あいつにはどうしても見てほしくないんだ…血に濡れた俺達を」 あんな言い方で突き放す事しか麟を帰らせる方法が思いつかなかった自分を、永倉は本気で嫌悪した。 こんなに人の死に近い場所に、麟を置いておきたくない。 そしてそれは、血濡れの自分を麟が受け入れてくれないのではないかという情けない不安でもあった。 「くっそ…」 何を悩んでいる? 何に怯えている? あんな娘一人に。 (あずさ…) こんな時、あの人なら何と言うだろう。
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