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「さっきから外ばかり見てどうしたんだ?あずさ」
「いいえ、何でもないの。ただ何だか…誰かが泣いているような気がして」
「ははは、相変わらずの心配性だな。今日は早く休めよ」
同意を込めて頷けば、男は満足したように自室へと向かっていった。その背を見つめ、女は思う。
(愛したわけじゃない)
その男を夫に持って、幾年が過ぎただろう。その歳月の中で、自分が心に想うのは違う男の事ばかりであった。
不謹慎だ、と思うけれどどうしようもない。
もう彼は自分の事など忘れてしまっただろうけれども。
しかし今では母となった彼女、竹内あずさがまだ少女だった頃のそれは、今考えてみてもやはり一世一代の恋だった。
それからすぐ父が倒れ、愛してもいない男と結ばれた。心配をかけたくなくて、彼には笑顔で別れを告げたけれど、最初のうちは毎晩のように涙で目を腫れさせた。
そんな父も、程なくして死に…
(だけど不幸だとは思わない)
寧ろ幸せだと言っていい。
夫は本当に良くしてくれる。
愛する息子もいる。
二人とも大切な大切な家族だ。
それを守るためならば、自分は何だって出来るのではないか。
(愛したわけじゃない)
でも、男として愛するだけが愛ではない、とあずさは思う。
あずさは今家族として、夫として、その男をこよなく愛している自負があった。
窓を開けているに関わらず、風一つ吹いて来やしない。
人肌に温まった空気がじっとそこにとどまっていた。
(泣いているのは誰だろう)
こんな夜は不安が止まらない。
それはきっと、泣いているのが誰なのか本能的に知っているからだ。
そうだ。これはある日突然風のように消えてしまったあの子の―――…。
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