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副長室の前まで来て、門番はすたこらと自分の持ち場に戻っていってしまった。
麟は仕方なく、障子の外から部屋の主に声をかける。
「土方さん」
戸惑いを含みながら、
それでもはっきりと。
しかし部屋の中からの返事は無い。部屋に居ないのだろうか、否、あの仕事の虫が部屋にいない事など滅多に無い。
おそらくは…障子の向こうにいる女を瞬時に特定出来なかったためだ。
「…土方はん」
もう一度呼び掛ける。
それも、京弁で。
これならば気づくであろう。
麟は確信して返答を待つ。
案の定、障子はすぐ、内側から凄い勢いで開かれた。
鬼の異名を持つその男、土方歳三は彼の特徴とも言えるキセルさえ文机の上に放ってきたらしい。
表情は常日頃から険しいので変化がよく分からないが、麟にはその慌てぶりが伝わったのか、必死に笑いを耐えている。
「…ンでここに居やがる」
麟の様子に苛々しているのがよく分かる声で、土方は言った。
「また行くところ無くのうてしもたんよ。あんたはんのところやったら雇ってくれるんちゃうかなって」
半分嘘だ。
居場所が無くなったからここに来たのではない。
ここに来るためそれらを捨ててきたのだ。
(何のために?)
分からない。
土方は暫し何事か思案してからぐいっと麟の腕を取り、乱暴に部屋の中へ引き入れた。
障子を閉め一人畳に腰を下ろすと、麟の予想通り文机の上に放ってあったキセルをぷかぷかやり始める。
それを見た麟も畳に正座した。
「…隊士として雇うのは無理だぞ。ここは女人禁制だ」
「わかっとります。女中として働かせてください」
麟は深々と頭を下げた。しかし土方はうんと言わない。
「手前、自分の立場わかってんのか?いくら捕縛令解いたっつっても、過去に何度も辻斬りを繰り返してたような奴を雇うかよ」
「なら余計に目の届くところに置いておくべきなんやないの?『あの事』も知ってるうちなら尚更…」
土方は小さく舌打ちして、キセルの煙を吐き出した。
「…『あの事』、誰にも漏らしてねえだろうな?」
「当たり前」
間髪入れずに答えると、土方は心底困ったというように前髪をかき上げ、そのまま片手で顔を覆った。
じっと土方の返答を待つ。
すると、彼が答えるより早く障子が開いた。
「歳ー!…って、あれ?」
入室の許可もとらず、明るい声で入ってきたのは…
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