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「ほい、お疲れさん。みんなの反応はどうやった?」
土間の方に降りると、歩が鍋を洗っていた。麟はその大きな鍋を目にとめてギョッとする。
「何それ」
「鍋やけど…」
「人間でも茹でるの?」
突拍子もない少女の言葉に、歩が笑った。
「あほか。あんだけの人数食わしていくんにはこんぐらいあらんと」
ふーん、と鍋を好奇の目で見る少女。歩はくすりと笑って、彼女に悪戯な目を向けた。
「京弁はどないしたん?」
「貴女の前では『草野麟』でいる必要無いもん。私は私で…『仲村口(こう)』でいられる」
それが満足のいく答えだったのか、歩は優しい笑みを見せて小さく息をついた。安心したかのようにまた鍋に注意を戻して、丹念にすすいでいく。
「ほんと…大層な子ぉやわ。それで?何でわざわざこないな所まで来たん?島原よりも良い働き口見つけた言うとったやん」
「あー…それは…」
口が答えるより早く、すぱんっと襖が開いた。
驚いて体ごと振り返ると、走ってきたのか息の荒い彼と目が合う。瞳がその姿を捉えた途端に体が勝手にびくりと震えた。
…会いたかった人だった。
「…麟」
名を呼ばれただけで、
腕のあたりに痺れが走った。
けれど、どこか今までと違う。
纏う空気が、声が、その目が、流れ出す怒りをうつしていた。
「…どないしたの?」
普段明るく笑ってばかりいる彼なのに、今はどこか様子がおかしい。気づいた歩がとりなすように声をかけるけれど、彼はそれさえ耳に入らないのか、すたすたと歩の横を通り過ぎてその先にいた麟の腕を強く掴んだ。
「話がある、来い」
麟は抗う事なく、彼の射るような黒い瞳に捕まった。
ただ心に、不安と名付けられた暗雲だけがむくむくと頭をもたげ始めていて、
「新、さん…」
彼を呼ぶ小さな声さえも、制止をかける歩の声と、それを無視して麟の腕を引く永倉の足音に呆気なく掻き消されてしまったのだった。
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