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予想以上に速い彼の足についていけずに、何度もつまずく。
四方に殺気を発する永倉の後ろ頭には声をかけることさえ躊躇われた。
庭に出る。
掴まれた腕が段々痛みを持ち始めて、麟は顔を歪めた。
それに気付いたのかどうかはわからないが永倉の足はそこでぴたりと止まり、それに安心する間もなく、腕を強く引っ張られた麟の視界はがくんと揺れた。
方向感覚を失った麟の身体はそのままそこにあった木の幹に押し付けられる。
乱暴に自分を押さえつける腕が永倉のものだと、信じる事は難しかった。
「何で来たんだよ」
ほら、その黒い瞳。
その目の中に自分が映っていると思うだけで、やはり身体のどこかがじん、と痺れる。
「ここは女の来るところじゃねぇ…」
ぎらりと瞳が怒りで輝く。
綺麗だなあ、と思った。
刀でも突きつけられているように背筋がすーすーする。
そう、綺麗だ。
その殺気は。
「歩はんかて女やないの」
それでもいつまでもその殺気に見惚れているわけにはいかないから、申し訳程度返答。
永倉の肩に、ひらりと桃色の何かが乗っかったのが見えた。
「歩姉はお前とは違う。…あの人の価値は女中の仕事以外のところにある」
「ああ、忍としての価値?」
凍るような殺気を発していた永倉の目が、面白いほど丸くなった。
綺麗だったのに勿体無い、と麟は頓馬な事を考える。
それと同時に永倉の肩に乗った桃色のそれが桜の花びらであることに漸く気がついた。
「何であの人の事を…!」
ここで『剣を交えた事があるから』と答えたら、この人はどんな顔をするだろう。
でも生憎、そんな事を口にする勇気など持ち合わせてはいなくて。
代わりに、離してくれという意思を込めて掴まれた両腕を軽く動かしたけれど、余計に強く掴まれただけだった。血が止まったらどうしてくれよう。
「…芹沢から聞いたんよ」
永倉は麟が嘘をついている事を分かっているのかもしれない。それでも、そう、とだけ言って咎めない彼は、やはりお人好しだ。
「なあ、何で怒っとるん?うちが女やから?忍でもないのにお女中になったから?それとも、うちが花魁(おいらん)やったから…?」
言っておいて、悲しくなっているのは自分だった。
男所帯の屯所に突然花街の女が寝泊まりする事になれば、隊長ともあろう永倉が風紀の乱れを懸念するのは当たり前の事だ。
当たり前の事、だ。
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