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永倉は目を見開いて何事か叫ぼうとしたが、すぐに思い直して口を閉じた。小さな吐息を一つ吐いて呆れた目をする。
「馬鹿か…」
怒鳴られるかと身構えていた麟は、そっと薄目を開けた。
「そういう事を言ってるんじゃない。俺が言いたいのは…」
永倉は言葉を探すように目をさまわよわせる。しかしそのうちに何か思いついたのかぴたりと動きを止めた。
「いや、そうだ」
麟はわけがわからずに彼の顔を見る。掴まれた腕は徐々に感覚がなくなってきていた。逃げるとでも思っているのだろうか?
逃げる筈がない、彼を追ってここまで来たのだから。
「帰れ。女郎なんかに寝泊まりされちゃ困る」
す、と全身が冷たくなった気がした。
心臓のあたりにぽかりと穴があいて、そこを風が吹きすさぶような感覚に、身が震えた。
「そもそも、何が悲しくてこんなとこで下働きなんかするんだよ?島原の女は島原の女らしく座敷で酒注いでりゃいいだろ」
彼が言っている事は間違っていない。間違ってなんかいない。隊長ともあろう彼が、風紀の乱れを懸念するのは当たり前の事だ。当たり前の事で。
…当たり前の事、なのに。
「馬鹿に…しないでっ」
なのに何で涙が出るんだろう。
「女郎なんかって何?その女郎なんかの店に足繁く(あししげく)通ってたのは誰!?」
離してと叫んで激しく腕を振り払えば意外にもそれはすぐに離された。
その拍子に永倉の肩に乗っていた桜の花びらが落ちる。
花びらはひらひらと彼の足元に落ちて、地面に小さな影を作った。
止まっていた血が流れだして手がぴりぴりする。怒りで冷たく凍てついた身体を熱い涙が温めていった。
「大ッ…嫌い。そんな事言う人だと思わなかった」
言おうかどうか迷った言葉を勢いに任せて吐き出した。これでもう、元には戻れない。
永倉の顔を見る事さえ怖くて、涙で揺らぐ視界の中を夢中で逃げた。
だからその時永倉がどんな表情をしていたかなんて、わからなかったのだ。
土間に駆け込むと、心配して待っていた歩が弾けるように駆け寄って来た。
「麟ちゃんどないしたん!?」
でもそんな歩の吃驚の声さえ今は耳に入らず、口はひたすら鳴咽を噛み殺していた。
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