紫陽花

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 女が頷く。  声が互いに聞き取りがたいと気付いたのか、女はこちらに歩み寄ってきた。そうして間近に女の顔をあらためると、実際は無表情なのではなく、少し寂しげな沈んだ表情の様である。  女はすぐそこ、鼻先まで寄ってきた。そこまで近付いて来て、ベンチに座らないのは尻が濡れるのを避けてのことだろう。 「あんたこそ、そんな暗い面して何してるんだ。こんな雨の日に。紫陽花でも見に来たのか?」 「いいえ違います。ちょっとだけ違います」  私の予想はことごとく外れる様だ。それはこの女に関してのみであろうが。  いや、そんなことより私はこの女の声が気になった。  自信なさげにおどおどとして、変に間延びした声だ。この様な喋り方をする人を目にするのは初めてのことである。  すると私は考えた。この女は親から何かしらを強制されているのではなかろうか。それもごく長期間に渡って本人の意志にそぐわないものを。  私は女の声に依って、ようやく背景を想像することが出来た。それに伴い女に対する愛着が湧いてくる。  この時私はすっかり女に興味を引かれていた。丁度落ち込んでいた私にとってはおあつらえ向きなイベントとも思った。 「醤油が切れてしまって、私は駅前のデパートに醤油を買いに行くところで、近道だからこの公園を通っていたんです」  ――この女は会話が苦手なのだろうか。余計なことをつらつらと並べては聞き手が理解し辛いというのに。いや、それ以前にコミュニケーション能力が乏しいのか。人と人の物理的な距離感然り、初対面の人間に対して面と向かって『怖い顔』と言ってしまうような精神的な距離感然り。小さな頃に子供同士のコミュニティを体験していない者によく見られる現象だ。   「そうしたら引き止めて悪かったね。じゃあ」  私はそう言ってベンチから腰を上げ、帰ることにした。この女と出会ったことに依り、幾分機嫌は持ち直している。  長々と雨に打たれていた体はすっかり冷え込み、帰り時であることを語っていた。
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