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「右手のエレベーターに向かって歩け。ゆっくりだ」
再び耳元で声が響く。生暖かい吐息を首筋に感じた。
辺りを見回す。誰か気付かないのか。
通り過ぎていく人々は、こちらを見ても驚いたような様子はない。
「行け」
更に強く、腰に固いものが押し付けられた。
感じた事のない冷たさが、服の生地を通して伝わってくる。何が押し付けられているのか。
エレベーターの前までゆっくりと歩く。全身から冷や汗が吹き出ているのを感じた。
すぐに上に向かうエレベーターが来た。それに押されるようにして乗り込む。
他の客も何人か乗り込んで来たが、こちらを見ても不審な表情は浮かべない。
時々ドアが開いて客が降りていく。
声を出そうとしても、出ない。かすれた息だけが口から抜けていく。
屋上に着くまでに他の客全員が降りた。
ここは立体駐車場のようだ。わざわざ屋上に車を停める者はそれほどいない。
ドアが開く。押し出されるようにしてエレベーターの外に出た。
そのまま屋上に続く自動ドアをくぐり抜ける。
遠くにいくつか車は止まっているが、人影はない。
図ったようなタイミングで、一台の銀色のセダンが屋上に上がってきて、目の前で静かに停まった。
男が背後から手を伸ばし、ドアを開く。すぐに後ろから、中に押し込む力が加えられる。
「嫌っ!」
ようやく声が出た。
車に押し込もうとする力に抗う。男と揉み合うような格好になった。
男。ワイシャツ姿でサングラスをかけていた。右手に手元を隠すようにスーツをかけている。
押し合っている内に、そのスーツがずれる。隠れていた右手に、拳銃が握られていた。
抵抗を強めた。
しかし男の力には抗えず、車の中に押し込まれそうになる。
ちょうどその時、自動ドアの向こうにあるエレベーターのドアが開くのが目に入った。
「助けてっ!」
叫ぶ。
エレベーターの中にいた男がこちらを見た。警備員のようだ。警備員は呆然としていた。
男と揉み合いを続ける。
ようやく状況が飲み込めたのか、警備員が何か叫びながらこちらに向かい走り出した。
「チッ」
地面に突き飛ばされる。舌打ちだけを残して、男がセダンに乗り込んだ。
急加速して、セダンが屋上から消えていく。
座り込んだまま呆然と、それを見送った。
駆け寄ってきた警備員が何か言っているようだが、意味を持った言葉には聞こえなかった。
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