漂流する意思<1>

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 暑い……。吉川憲二はその身に覆い被さるようなジメジメとした熱気で、目を覚ました。  寝過ぎたな。彼がそう判断したのは窓から差し込む光によって、部屋の中が朱色に染まっていたからだ。彼は汗で濡れたTシャツをその場に脱ぎ捨て、時計に目をやる。  やっぱり……。彼はため息を吐く。  時刻は夕方五時。古着屋の店主を勤めている彼の細やかな休日は、すでにエンディング間際だった。この後には悲しい黒とエンドロールしかない。  しかし、悲観に暮れていても仕方がない。吉川は気を取り直しキッチンへと向かう。  彼は鍋に水を入れ、それを火にかけた。パスタを作ろうとしているのだろう、上半身裸で調理をするその姿は、男の独り暮らしの特権とも言える自由さに溢れていた。  キッチンには熱気が籠り、彼はその額から汗を流す。いったいどれだけ汗をかけば気が済むんだよ。憲二は彼自身に問いかける。  分かるはずはない。人間は自分自身を把握することさえ出来ないのだから。  彼は自分の中にあった悪意に満ちた欲望を思い出す。  何年前になるだろうか。内向的だった自分がある男との出会いにより確実に道を踏み外していったのは。 「ヒュプノシス」  彼は鍋から上がる湯気の上にその音を当てる。白い湯気の中に入っていったそれは、霧の中をさ迷うように消えた。  彼は頭を振り、そこに浮かんだ忌々しい出来事に鍵をかける。  辛いことの後には楽しいことを。悪いことの後には良いことを。いつからだったか、そのことは彼の信条となっていた。  彼は冷凍庫を空け氷を、冷蔵庫を空けオレンジジュースを取り出す。憲二はそれをテーブルに並べた後、食器棚からカクテルグラスとウォッカを取りだす。  酒を飲んでそれを忘れたい訳じゃない。彼は手早くカクテルを作るとそれを片手に再びパスタに取りかかる。  彼の背後、キッチンの隣の部屋に先程彼が投げ捨てたTシャツが見える。そしてそこに書いてある文字が見える。  物語の読み手である私たちは特別それを意識していない。  しかし彼は確実に何かに追い込まれていく。正しくも残酷に。  朱色の空は傾き、一番星が瞬く。彼は未だそれに気が付かない。グツグツと音を立てる鍋が何かの声のようだった。
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