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「おい健ぼう!そんな調子じゃ日が暮れるだろうが!」
自己主張の激しい蝉の声に負けじと、武爺(たけじい)の怒声が上がる。武爺というのはこの爺さんの名前【水里 武憲】からきている。
山に囲まれたこの田舎は同じ名字が連なり、村人殆どが親戚だと言って良いほど小さな集落だ。右を見ても左を見ても水里水里……。故にいくら年長者であっても、自然と名前で呼ぶ習慣がつくのである。
「わーってるよ武爺!全く、あれで七十越えてんだから化けもんだわな。行くぞ透夜」
「え~~!あと何往復すりゃ終わるんだよ~」
「さっさと行かんかい!」
愚痴を零したところで武爺の怒声が再び火を噴いた。
健太と僕は慌てて飛び上がると一目散に駆け出す。
後から追ってくる荷車の車輪の音だけが、ガラガラとどこまでもついてきていた。
蒸し暑いこの季節になると、過疎の進んだこの村にも僅かながら活気が戻ってくる。年に一度の祭準備でどこの家も賑わい出すからだ。
……僕達子供からすれば、年内で最もこき使われる苦痛な時期でもあるのだが。
【水和卦村入口】
二人で空の荷車を引きずってやってきた場所には、漢字だらけの木札が打ち込んである。村唯一のバス停でもあるこの場所には、古びたベンチと停留所のポール以外には何もない。今日だけで、この場所に何度来たことか……もう数えることさえ諦めた。
「健ちゃん、暑いね」
耐えきれず何度目かの声が漏れた。額に浮かぶ汗が耳横を通る度に嫌な感覚が全身を襲う。くすぐったくてすぐに拭うが、その無意識の動作さえ暑さを誘った。
「だぁあ!もうそれは言うなや。余計暑い」
僕と同じように汗を流す健ちゃんは、白いシャツを肌に貼り付かせたまま怒鳴り返した。なんと迫力のある声だろうか。武爺の孫なだけはある。
太い眉や筋肉質な体型までそっくりだ。
喋ると余計暑いことを学習した僕らは、黙って作業を進めることにした。
バス停に止められた軽トラから祭道具を荷車に乗せていく。軽トラでそのまま運べばどれほど楽だろうと思うのだが、祭のある水和卦神社には車で行けないのだ。
文句を言っても仕方がないことは、毎年の繰り返しで身に染みている。
「今年も祭が始まるね」
独り言のように呟いた声は、青過ぎる空に吸い取られていった。
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