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ラウンドイットの一階ロビーは、三階までの吹き抜けになっていた。天井では、遠くからでも解るほど豪奢なシャンデリアが、虹彩を放っている。黒と白の大理石がチェス盤のように敷き詰められたフロアの上で、コンサートの開演を待つ紳士淑女が、和やかな談笑を交わしていた。
彼らの中に紛れたところで、カオルはマダム・ブルドックに礼を言った。
「ありがとうございます、マダム。危うく私は至上の夜を送り損ねるところでした。貴方のような女神に会えたことを、幸運に思います」
「ほんとに口のお上手な人ね、貴方は」
まんざらでもなさそうに、マダムは笑った。
「本心からの言葉ですとも」
カオルは力説した。そう、本心からの言葉だ。名前も知らぬ相手の身分を、ごり押しして証明してくれる人になど、そうそうお会いできるものではない。
(あなたは泥棒の女神ですよ)
心の中で賞賛を送って、カオルは腕時計を確かめた。
「さて、開演まで時間がありますね。何か飲み物でもお持ちいたしましょう。暫くお待ちいただけますか? 私の女王様」
ふざけた仕草で、彼女の髪をひとふさ手にとり、唇を落とせば、マダム・ブルドックは夢見るように目をとろんとさせた。
「ええ、行ってらして。私の麗しい騎士様。でも、すぐにお戻りになってね?」
「勿論です。貴方こそ、私のいない間に他の紳士に目を奪われないように」
戯れ言に戯れ言で返して、カオルはマダム・ブルドックと別れた。
勿論、戻るつもりはない。
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