11人が本棚に入れています
本棚に追加
女が頷く。
声が互いに聞き取りがたいと気付いたのか、女はこちらに歩み寄ってきた。だから、間近で女の顔をあらためて見る事ができた。実際は無表情なのではなく、少し寂しげな沈んだ表情の様であった。
女はすぐそこ、鼻先まで寄ってきた。そこまで近付いて来て、ベンチに座らないのは尻が濡れるのを避けてのことだろう。
「あんたこそ、そんな暗い面して何してるんだ。こんな雨の日に。紫陽花でも見に来たのか?」
「いいえ…違います。……ちょっとだけ…違います」
私の予想はことごとく外れる様だ。それはこの女に関してのみであろうが。
いや、そんなことより私はこの女の喋り方が気になった。
ハスキーなアルトの声なのだが、自信なさげにおどおどとして、変に間延びした喋り方なのだ。この様な喋り方をする人間を目にするのは初めてのことだった。
すると私は考えた。この女は親から何かしらを強制されているのではなかろうか。それもごく長期間に渡って本人の意志にそぐわないものを……
私は女の喋り方に依って、ようやく背景を想像することが出来た。それに伴い女に対する愛着が少しづつ湧いてくる。
この時私はすっかり女に興味を引かれていた。丁度落ち込んでいた私にとってはおあつらえ向きなイベントであるとも思った。
「醤油が切れてしまって…私は駅前のデパートに醤油を買いに行くところで…近道だからこの公園を通って行く事にしたんです」
――この女は会話が苦手なのだろうか。余計なことをつらつらと並べては聞き手が理解し辛いというのに。いや、それ以前にコミュニケーション能力が乏しいのか。人と人の物理的な距離感然り、初対面の人間に対して面と向かって『怖い顔』と言ってしまうような精神的な距離感然り。小さな頃に子供同士のコミュニティを体験していない者によく見られる現象だ。
「そうしたら引き止めて悪かったね。じゃあ」
私はそう言ってベンチから腰を上げ、帰ることにした。この女と出会ったことに依り、幾分機嫌は持ち直している。
長々と雨に打たれていた体はすっかり冷え込み、帰り時であることを語っていた。
最初のコメントを投稿しよう!