東西冷戦

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また、フランス領インドシナは独立戦争によってベトナム民主共和国とベトナム国に分かれたが、 この2つの国もまたそれぞれアメリカとソ連の支援を受け、さらなる対立を生みました。 しかし、こうしたアメリカとソ連の冷戦もソ連の独裁者スターリンの死去で新たな局面を迎える事になります。 1956年、共産党大会でフルシチョフ第一書記がスターリンを批判するとともに、平和共存路線を打ち出しました。 また1963年にはアメリカ、イギリス、ソ連の3国間で部分的核実験停止条約が締結され、冷戦はしだいに氷解の兆しを見せ始めました。 しかし、ソ連の東欧諸国への締め付けは依然厳しく、政治的にも経済的にも自由を奪われていた労働者や民衆が、自由化運動を起こしましたが、そのたびにソ連軍によって鎮圧されました。 ソ連で『ペレストロイカ』が始まる80年代後半まで、東西を分かつ鉄のカーテンは閉じられたまま、激動の時代の幕開けを待っていました…
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