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頬を打つ風が、痛いほどに冷たい。
二宮圭(ニノミヤケイ)は自分の自宅兼事務所を目指して歩きながら、白い息を吐いた。
近くの自動販売機で煙草を購入した帰りだ。他の事で外出する気力は湧かないが、煙草が切れた時だけは特別だった。
すぐに目的の建物が見え始める。
一階のカフェからは、いつもと変わらない女子大生の笑い声が響いていた。相変わらずの繁盛ぶりだ。
それを横目で見ながら、建物の側面にある入り口へ向かう。自宅兼事務所である二階に上がる為には、ここを通るしかない。
入り口のドアを開けると、五年前から何一つ変わらない、無機質なコンクリートずくめの空間が広がる。
そこにある急な階段に、圭は足を踏み出した。この階段も、五年前から何一つ変わっていない。
変わったとすれば、自分かもしれない。
五年前はこの階段を上がっても息が乱れる事はなかった。今は、少し乱れる。
「こいつのせいだな、きっと」
久しぶりに着たコートのポケットに大量に突っ込んだ煙草の箱を弄びながら、圭は呟いた。
階段を上りきって、『二宮探偵事務所』と書かれた看板が下がる、見慣れたドアに手を伸ばす。
出る時に鍵はかけていない。理緒にバレるとうるさいとは思ったが、鍵はかけなかった。
次に広がるのは、ソファーとテーブルが置かれた小さな待合室だ。今までにこの場所を利用した人間は一人もいない。
その待合室の奥にひっそりと佇む、アンティークのドア。
探偵物の小説を読んで、探偵は何かこだわりがいるらしいと思い、大枚をはたいて購入したものだ。
このドアがどれほどの意味を為しているのかは、考えない事にしている。
細かい装飾の施されたそのドアを開ける途中で、圭の中に後悔の念が生まれた。
理緒が来ている。
キッチンから響いてくる音でそれに気付いた。鍵をかけずに出かけた事を咎められるだろう。
ゆっくりと物音を立てないように、圭は中に入った。
キッチンの脇を通り抜ける。やはり理緒がいて、何か作っている。
まだ圭には気付いていない。
リビングのいつも眠るのに使っているソファーに辿り着き、ゆっくりと腰を下ろした。
「おかえり」
キッチンから、いつもの明るさのない、理緒の声が響いた。どうやら気付かれていたらしい。
しかし圭を咎めに来るような様子がない。いつもの理緒なら、間違いなく怒鳴っている。
それが更に、圭の後悔を誘った。
理緒は不機嫌だ。間違いなく。
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