序章 決闘高田馬場

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「何でも中山安兵衛と申して、堀部殿の入り婿として仕官し、その名を江戸で知らぬ者はいないと、評判の男です」 江戸中を熱狂させた高田馬場の決闘に始まり、安兵衛について聞いた話を松之丞が熱く語る。 「まるで、酒呑童子だな」 松之丞の話を聞きながら、内蔵助は高笑いして、まだ観ぬ安兵衛を【酒呑童子】と評した。 「掻い摘んで申せば、血の気の多い暴れん坊が、酒に釣られて退治された。中山安兵衛と申す男は、さしづめ酒呑童子だな」 皮肉とは裏腹に、内蔵助は愉快そうに語る。そんな父親と並んで、松之丞も調子に乗る。 「ひょっとしたら、喧嘩安兵衛は、鬼より怖い弁慶の如き巨漢かも知れませぬ」 我が子の機転に面喰らいつつ、内蔵助は抱腹絶倒する。 「そうすると、彌兵衛殿が、さしづめ、牛若丸と申すのか。あの彌兵衛殿が、牛若丸じゃぞ」 親子は談笑しながら、砂浜を歩く。陽光が海面を照らし、穏やかな潮騒の音が静かに響く。 「父上。万一、父上と喧嘩安兵衛殿が稽古を手合わせなさるとしたら、私は父上の方が絶対に勝つと信じております」 「ほう。何故そう解る」 「父上は東軍流免許皆伝。その上、山鹿流兵法を極めておいでです。いくら周りが父上の事を昼行灯だのと、何だのと申しましょうと、松之丞は父上こそ、赤穂一の侍と信じております」 「ははは。左様な事は」 「父上。真の父上は、恐ろしい程、お強い方だと松之丞には解っております。何故わざと昼行灯だのと言われて、そのまま聞き流すのですか。松之丞には、それが解せませぬ」 「良いか。松之丞。男とは、やたら無闇に己の背丈を大きく見せるものでは無い。たとえ凡庸と呼ばれようと、大いに結構。妻と子を守る。殿に忠義を尽くす。常に赤穂の安泰を心掛ける事。それこそが、何より肝要。大石家の勤めじゃからの」 「そういうもの、でしょうか」 「人の上に立つ者は大概嫌われるか、妬まれるか、疎んじられるものだ。それもまた、御役目と心得て、どう言われようと、黙々と徹するだけだ。いずれ、其方にも解る日が来る。それこそ、いちいち一喜一憂していたら、身がもたぬぞ」 憮然とする松之丞に、内蔵助は淡々と諭す。 「それに、だ」 更に内蔵助は付け加える。 「この内蔵助を昼間の行灯と申すならば、さほど目立たないと言う事だ。それが一番、良い。皆も平穏無事で、赤穂が安泰という何よりの証になるからな。何にせよ、喜ばしい事だ」
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