序章 決闘高田馬場

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突如の叱責に、ほりは慌てて、また萎縮してしまう。 「いや、お気遣い御無用に願いとうござる。何分、かような荒(あば)ら屋にて、大したおもてなしも出来ず、ただでさえ、心苦しい限りにござれば」 ほりに気遣って、今度は安兵衛が慌てて、彌兵衛をなだめた。 「いやいや、これは拙者とした事が。されど、中山殿。娘も、とうに心構えは出来てござる。あとは中山殿のお気持ち次第。良い御返事を、お待ち申し上げる。今日の所は、これにて。ほり、帰るぞ。しからば、御免」 話すだけ話して、満足げの彌兵衛は、ほりの手を引き、玄関に出ようとする。 「お待ち下され。襷を」 呆然としながらも、我に返り、安兵衛は襷を、ほりに手渡す。 「また、近いうちに」 はにかみながら、ほりは安兵衛に挨拶し、襷を受け取って、彌兵衛と共に外へ出る。残された安兵衛は、そのまま見送った。 <そんなに、評判だったとは> 今更ながら、安兵衛は高田馬場での決闘が、江戸中の噂である事実を自覚した。 <成り行きとは申せ、大それた事をしたのかも知れない> ふと、枕元に置いてあった太刀を取り、鞘から抜き放ち、朝日に反射して光る刃先を、まざまざと凝視する。 斬らねば、斬られていた。 あの時、瀕死の叔父に嘆き、怒りに身を任せ、相手の懐に飛び込み、無我夢中で斬り続けた。 太刀を横に払い、斜めに振り下ろす。そのまま回想を続ける。 最後の敵を斬った後、気付けば三の屍が横たわり、血刀を握り締めて、立ち尽くしていた。 そして、叔父を守れなかった。 <鬼が乗り移っていたのだ> 掌に汗が滲む。烈火の如く憤激し、歯止めが利かなかった己の獣性に対し、戦慄を覚える。 <妻など、娶(めと)れようか> 素直に迷い、そして戸惑った。 あの人懐っこい堀部彌兵衛が義父となり、ほりが妻となる。月代を剃り、裃を身に纏って、武家奉公する自分を予想してみても、実感が湧かない気がする。 <俺は所詮、喧嘩安。ただの呑兵衛安。買いかぶりだ> 悶々とした気分を払拭すべく、安兵衛は外に飛び出し、そのまま諸肌を脱ぎ、井戸水を頭から被って、武者震いしていた。
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