幼き日

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朝の稽古を終え、 正太は硯に向かっていた。 一人の部屋。 ここには音一つなく、 ただ墨と紙の匂いだけが広がる。 墨を擦り終えると静かに筆を取り、和紙の上に滑らせた。 あっという間に整った字体の漢詩が現れた。 「……。」 その上に大きくバッテンを書き、ごろんと仰向けになる。 一瞬天井が歪んだ。 「少し日に当たり過ぎたかな…。」 正太はあまり体が強くない。 5分程馬に乗れば息が上がり、しょっちゅう目眩に苦しんだ。 だからそもそも体を動かすのは得意でないのだが、 戦乱の世に戦国大名の後継ぎに生まれてしまったのだから、そうも言ってられない。 むしろ他の誰よりも鍛練に励み、強くならなければいけないのだ。 双子の姉と弟は、あらゆる面で正反対だった。 正太は体が弱くしょっちゅう寝込むが、 友枝は風邪一つ引かない。 温厚な弟と激しい気性の姉。 正太は学問に秀で、友枝は武芸に秀でていた。 そんな二人だが仲はとびきり良く、互いに足りない部分は補い合い、助け合ってきた。 友枝が正太に弓を教え、 正太が友枝にかなの読み方を教えた。 正太が友枝の激情を押さえ、 友枝の熱さと負けん気の強さがのんびりした気性の正太を駆り立てた。 「姉様…。」 ゆっくり起き上がって窓から馬屋を見遣る。 姉はきっとあそこにいる。 生まれる前からずっと一緒にいた二人は成長するほど離れることが増えた。 それだけではなく、いつしか友枝の激情をなだめるのは、片割れの仕事ではなくなっていた。 今日もきっと茂遠の息子のところに行ったのだろう。 あれだけ武芸に張り切っていた姉だ。 急に止めるよう言われ、飛び出していった姉のことだ。 「姉上、泣いてるだろうな…」 「正太さまー。 言われていた巻物持ってきましたよ♪…っと。」 急に静かな空気を賑やかにする声が襖の向こうから聞こえた。 どすんっ と大量の荷物を置く音がする。 正太は慌てて漢詩を破り捨てた…と同時にガラガラーっと襖を開ける、遠慮のかけらもない音がする。 「草矢…。入っていいかくらい聞けよ! ってうわっ これ一人で持ってきたのか!?」 「いいじゃん兄弟なんだし♪」 体重くらいありそうな書物の山をひょいと持ち上げ入る。 草矢は二人の乳母の実子だ。 女と見紛うような、線の細い華奢な見た目に似つかわしくない動きをする。
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