第一章~蜀漢疲弊す~

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…中国の三国時代の三国の中で、一番先に衰えを見せたのは先主・劉備〈リュウビ〉の建てた蜀(蜀漢)であった。 劉備の義兄弟・関羽が呉の軍に討たれると、先主は諸葛亮らの反対を押し切って呉に攻め入り、そして大敗した。 劉備は失意のうちに病に倒れ、後事を諸葛亮らに託して亡くなった。 西暦223年の事である。 以降、蜀は呉と再び同盟し、宰相の諸葛亮は魏に対して何度も軍を進めたが果たせずに五丈原に外征中に病没。 西暦234年の事である。 諸葛亮の死後、蜀の内部は綻びをみせ、衰退していくのである。 そもそもの問題は、蜀漢の宮中内部の派閥にあった。 劉備をはじめ蜀の政権の主軸は、もともとは高名な「赤壁の戦い」によって劉備が得た土地・荊州から来たのであり、いわゆる荊州人の名士(荊州人士)によって形成されていた。 諸葛亮を代表とし、馬良<バリョウ>・馬謖<バショク>兄弟、黄忠<コウチュウ>、魏延<ギエン>など優れた人材がいた。 しかし蜀は劉備の死の前後、そうした人材を多く失ったため、後主・劉禅〈リュウゼン〉を輔佐して政務を執った諸葛亮によって、益州人の名士(益州人士)も各部署に配置するようになった。 時は流れて、諸葛亮の北伐により姜維という逸材を得たが、反面さらに人材を失った。 諸葛亮は優れた政治家であり、人々をよく統御したため、二つの派閥の争いはあまり表面化しなかったが、諸葛亮の死後に姜維〈キョウイ〉が軍権を握ると、状況は大きく変わる。 彼がどちらの派閥の出身ではない、涼州出身の魏からの降将だったからである。 軍才豊かな彼が、諸葛亮の遺志を継いで北伐を行ったのは、蜀の国が魏を討って漢を再興することを存在意義としていたからだが、姜維としては戦功をたてることが、宮中での立場を確立することになるからでもあった。 当然何度も軍を起こせば、軍費は莫大となり、国内では働き手を失う。 さらに官宦〈カンガン〉である黄晧〈コウコウ〉が劉禅の側近となり政治の乱れを招き、国力は衰退し、やがて自国を守ることさえも困難になっていった。 姜維が要地である漢中を放棄して、魏に対する防衛線を下げたのは、まさしくこのような経済的な理由があったのである。
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