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栄次郎によれば、突然耳にした悲鳴と火のついたような泣き声を頼りに駆けつけてみれば、犬が歯を剥き子供を襲っているではないか。
咄嗟に犬を追い払うべく路傍の用水桶の水を掛けたが、犬は一向に怯む素振りを見せない。
それ以上「だらしねぇことだが、どうにも手出しできなかったんでさぁ」と証言する栄次郎の広い背中を眺めながらお紺は、《そうだ……私も》犬の側まで近寄っていながら、たかが啼き声一つで気勢をそがれ、急に恐ろしくなって足を竦ませてしまった。と、その時を思い出し身震いした。
《もし……、あのままだったら、自分も襲われていたかもしれない。いや、おそらく今ここにこうしていられる身ではなかったろう……》それを想いお紺は、彼女の背後で板張りの壁に背をあずけ、手持ち無沙汰に虚ろな視線を中空へ漂わす若旦那へ、今更ながら強い憎しみを覚えた。
若旦那とは無論通り名に過ぎず、銀八が彼の本名であり、その名で呼ばれていた当時は呉服問屋の総領息子として皆から“銀坊っちゃん”と慕われていたものだった。
それがある日、店の売掛金を博打で擦ってしまい、父親からひどく叱責されたのを逆恨みした挙げ句、家を飛び出して以降悪い連中と付き合うようになってしまった。
だが、父親とは反りが合わぬ銀八も、母親とは密かに会っていたらしい。
会う度に幾らかの金をせびっては、それが遊興に消えると、父親がいない隙をねらって、又小遣いをねだるの繰り返しで、生活費から工面して息子に渡すが三日と空けずでは、いかな大店のおかみといえど限度がある。
そうこうするうち父親が胸の病に倒れ、母親の両肩に店の将来が重くのしかかると、銀八に店を継いでほしいと無心に来るを幸いに頼み込むようになった。
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