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お紺は目を見張り、震える両の手で口を覆って、思わずその男を盗み見た。
人品卑しからぬ風体。役者にしたいような人目を惹く締まった面立ち。
その表情にはしかし、たった今白刃一閃、息を呑む水際立った手並みを披露した者にはおよそそぐわぬ苦渋が充ちていた。
見るものの胸を締めつけるような……。
「やいやい、この三下侍」
事の次第にそれまで唖然としていた若旦那男が唾を飛ばして食ってかかった。
「わしの事か?」と背中で答えておいて、「その女児を早く医者に連れていきなさい」穏やかな声音で彼の目の前にいた母親を促した。
中年の女が、あわててピクッとも動かぬ我が子を抱え、群衆の視線の中を駆け出した。
少し遅れてその後を数名が追い、人垣に隠れるのを待って侍は、「俺の犬を、てめえよくもやりやがったな、この田舎野郎」と、更に愚弄する旦那男へ振り向きざま、刀を返してその切っ先を喉元に突きつけた。
血曇り一つ無く、青白く妖しい輝線を放つ尖鋭の先で、旦那男はてきめん顔色を無くした。
侍は顎をしゃくって、「あれはお前の犬か?」と質した。だが男は、あわわと口ごもり、他愛なくその場で尻餅をついてしまい、それ以上、さっきの威勢はどこへやら口もきけぬ態で見開き怯えきった視線を鼎へ投げかけるばかりである。
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