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 人間の死体。  鮮血にまみれた、一人の男の死体だった。  ゆらりとした気のない動きで、その死体を踏みつける青年の足を濡らすように、血溜まりがゆっくりとその範囲を広げていく。その、淀んだ汚い紅。  ぼんやりとそれを見つめる、白銀の美しい青年の肩に、離れた位置に立っていた男が手を置いた。闇に紛れて分からない、深い夜をその身に纏った男。  彼は、その青年の紅い炎の瞳を真正面から睨みつけると、静かに口を開いた。 「……一撃で仕留めろ、白鬼(はっき)」 「……はい。主人……」  どこか遠くを見たような瞳でそう声音を漏らすと、白鬼と呼ばれた青年は、自分の足元で静かに広がり続ける血溜まりに、再び視線を落とした。  何にも執着を見せない、壊れたような瞳を。  その中には、この世界で生きる人間たちに対する侮蔑も含まれていた。  闇に染まった虚無的な世界で、彼らが得るものは何もない。あるのは、生への執着か、あるいは死への渇望だ。他には何もない。  幸せも喜びも笑顔も楽しみも、何も。荒んだ精神に覆われ、全てのものがその存在価値が認められない、腐った世界だ。  ……否。ほんの一握りの上流社会の人間たちだけが、それを認められている。他は、ゴミに過ぎない。  ここは、現実でありながら尚、現実味を帯びない無限の闇の世界だった。  闇に反発し、僅かな光を取り込んで微弱に輝く白銀色の髪を無造作に指で撫で、一度主人の顔を強く睨みつけ、それから青年は息を吐いた。  後に残ったその炎色の瞳に宿るものは、一切の虚無だけ。一度見せた深い憎悪すら、今はもう跡形も残らない。青年の全ては、有り得ないほど闇に呑まれていた。 「さぁ、帰るぞ」 「はい……」  先立って歩き出す主人の後を追いながら、青年は一度後ろを振り返り、自分が仕留めた人間の死体を見つめた。  炎色の瞳が何を思い、何を考えたのかは分からないが、ただそれは深い闇を宿し、虚無と静寂だけを抱えていた。
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