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うちの店は少々入り組んだ場所にある。その為タクシーを呼んでも大きな通りまで少し歩かなければならない。
雨足が強かった事もあり、お客様を通りまで送ってやれと母から言われて、トイレで多少落ち着いた様子の男に声をかけた。
「タクシーそろそろ来ますので…そこまで送ります」
男は疲れ切った顔を上げると、ポケットから五千円札を取り出して差し出した。
母にお勘定を頼み釣銭を受け渡し、傘を2本持って店を出た。
「…すまないね」
肩越しに弱く囁いたのが聞こえて、アタシは作り笑いをしてみせた。
酔った客をこうして送る事には慣れていたから、何とも思わなかったし、絡んできたって軽くあしらってきた。
それでもこの男の囁きに、アタシはどういう訳かドキドキした。
通りで迎車ランプを点けたタクシーを見つけて近付く。
男がタクシーに乗り込む際に、ビニール傘を1本渡した。
「雨、止みそうにないから」
傘を受け取ると男は胸ポケットから1枚の紙を取り出してアタシの手を取り握らせた。
「今度お礼したいから、メールして」
人気の少ない車通りにアタシを残して、タクシーは発車した。
店に戻り部屋に上がって、握った紙を見た。その紙は名刺だった。
「牧野涼介…」
名前と肩書きを見て名刺は机の上に置いた。
今更ながら、あの時あの名刺を捨ててしまえば良かったと思う。
後悔先に立たず。
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