1章・歪曲した本能

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横目でそれを確認した拓海は、怒りの矛先を店員から客に変え、さっきよりも険しい顔付きで睨みつけた。 「落ち着け」 客の1人が抑揚のない平坦な声で宥める。蓄積した不満故に暴走気味な拓海は、止まらず怒りに身を任せて男に掴みかかろうと手を伸ばした。 が、 その瞬間、拓海の首筋に冷たい物が触れた。 その感触に本能的な危険を察知し拓海は動きが止まる。 「…玖朗」 いつの間に拓海の隣に立っていたのか。 平坦な声で名前を呼ばれた男は顔をにやけさせたまま、ゆっくりと右腕を下ろす。恐る恐る、目線を玖郎と呼ばれた男の右腕に移すと、その先にはナイフが握られていた。 拓海は自分の首筋に刃物が当てられたのを理解した瞬間、まるで糸の切れた操り人形のように力無く膝からガクリと崩れ落ち、床に手を着いた。 今までに感じたことのない恐怖に呼吸も忘れ、全身から冷や汗が吹き出る。夏に似つかわしくない寒気を感じた上、焦点すらも合わず視覚で捉えている映像は、濃霧に塞がれていた。 不自然な寒気に体を震わせ、途切れ途切れの荒い呼吸を行うのが拓海の精一杯の行動。それも無意識下に生命維持のためだけに見られる反応だ。 拓海は白濁した思考回路で、数秒前の事態を必死に整理しようとする。しかし、拓海には一体なにが起きたのかを理解することが出来なかった。 それもそのはず、拓海には動作を捉える事が出来なかったのだから。 拓海が平坦な声の男に掴みかかろうとする瞬間、玖郎は予備動作もなしに拓海の側面に滑る様に移動し、 その上、切ってしまわぬよう、ナイフの側面を寸分の狂いもなく頸動脈へあてがう芸当を平然と、薄笑いすら浮かべてやってのけたのだ。 通常そんな世界とは無縁である一大学生に玖郎には、なす術もない。 玖郎は拓海を見下ろし一言、笑顔で追い討ちをかける。 「はい、死んだ」 他人に物を渡すかのように軽く、且つ極々自然な口調で放ったにしては、余りに異質な響きを持っていた。現実味を帯びた残酷な言葉に、拓海を支配する悪寒は尋常でない速度で体中を駆け巡る。 玖郎が言うとおり、あの瞬間に死んだのだと、拓海は自分の身を以て思い知った。
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