12人が本棚に入れています
本棚に追加
宗教は人を纏める上で最も重要な位置にあるといえるだろう。
国が国教と定めたものを信仰するというのは、一種の強制手段にも思えるが。
では逆に考えれば、国は何で成り立っているのか?
国にとって必要なもの“領土”“文化”“資源”。
そしてそれらを手に入れる上で最重要になってくるのは“人間”だ。
人が居なければ領土を手に入れることも、文化を作り上げることも、資源を見付け出すことも不可能である。
国王も人間に過ぎず、また高官や元老たちも人間に過ぎない。
国と民は密接であり、そして離れることが出来ないというのが事実だ。
それらを纏めるのに必要なものは、権力でも財でもない。
“信仰”という見えざる力。
王を敬えと一般市民が口にしても、大きな影響力はないだろう。
だが、それが“神”を経由したものであったとしたらどうだ。
不思議なことに人はそれに従う。
元を考えれば“神”という存在自体があやふやなのにも関わらず、天声だという偽りに踊らされ、国民は王の前に頭を垂れるのである。
それらが性だというのならば、何とも滑稽ではないか。
故に、宗教とは昔から一種の治安維持装置として活用されている。
権力者―――つまり、国王や皇王などからすれば、これほど楽に人を纏められる術はないだろう。
なればこそ、国教を定め人心を一つとするのだ。
そうすれば国内は滅多なことでは乱れない。
神という単語を使えば、国民は王の前に跪く。
都合がいい、そして危険度が極めて小さい統一方法だ。
それに左右される人間を、哀れと言わず何と呼べようか。
.
最初のコメントを投稿しよう!