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弥彦(ヤヒコ)は厳重に警備された社に忍び込み、その最奥を目指して駆けた。
幾人かの見張りを気絶させ、幾つかの戸を蹴り倒した頃だったろうか。不思議な感覚に呼ばれた気がした。
その感覚を何と形容すべきか。たとえるならばそう、水面に波紋が出来た時のような。何か得体の知れぬ者が確かにそこにいるのだという感覚。
迷路のように入り組んだ廊下を己の感覚に迷いなく走ると、忍んだ筈の足音も容赦なく彼の居場所を示した。
歩を進める度にその感覚は近くなってゆく。ならば、と最後の戸を開けた時――彼女はいた。
「遠野の神下ろし巫女とはお前か?」
弥彦は急いでまくし立てる。走り通しだった為に、息は上がり汗は吹き出ていた。しかしなおも彼は己を急かす。
辺りに喧騒が広がってきていたからだ。弥彦の足音に人が集まってきたに違いない。気絶した見張りに気づくのも時間の問題だ。
「お前が巫女か?」
悲鳴を上げるでもなく黙り込んだ女に、弥彦はじれて再び強く問うた。
暗がりの中に灯火が一つ。女の表情は影になっていてうかがえない。
「そうだ」
女の声は凛と響き、震えてもいなければ弱々しいそれでもない。弥彦は想像通りだと思った。その落ち着いた娘離れした声こそ、まさしく巫(カンナギ)の名を受ける者に相応しい。
「ならば共に来てもらおう。俺はお前を浚いに来たんだ」
白い歯を見せて笑った弥彦に、女は反応を示すことさえしなかった。ただ白い右手を額に翳す。
「……何をしている?」
武術の構えでもなければ呪詛の言葉を口にするでもない。奇妙な格好のまま動かない女に、弥彦は眉根を寄せて訝しんだ。
「抵抗をしている。浚いに来たんだろう?さっさと行動に移したらどうだ」
弥彦は一瞬、自分が危険な身であり、急いで脱せねばならぬ身だということさえ忘れかけた。
そんな細腕一本を構えただけでどんな抵抗が出来るだろうか。否、もしかすると巫女というだけあって何か不思議な力を持つのかもしれない。
そう思ったが時間もない。恐る恐る手を伸ばす。
「え?」
驚いたのは弥彦だった。女は易々と弥彦の腕の中に収まったからだ。着物を何やら引っ張っているが、痛くも痒くもない。拍子抜けしながらも、彼は女を腕に抱えたまま社を脱け出した。
夜の闇へと身を隠し、まんまと巫女を手に逃げ仰せたのである。
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