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「私の名は千羽夜(チハヤ)と言う。さて盗人、そなたも名乗れ」
連れ去った巫女は弥彦を恐れるでも、憤りを露わにするでもなかった。国境の山道で休息を取ろうと地に下ろしても、逃げようとする様子はついと見せない。
ただ座り心地の良さそうな石を見つけて腰を下ろすと、偉そうに名乗ってきた。
「はぁ……俺は弥彦だ」
弥彦はこんなにも堂々と言葉を発する女を知らない。これが巫女と言うものなのだろうかと、戸惑いながらも感心した。
「ふむ……弥彦か。男(ヲノコ)らしき名よの。その顔立ち、遠野の者ではないな」
目の前に座りこんだ弥彦の額に白い指が伸びる。石に座っているために千羽夜の方が幾分か高い位置にあった。
その白魚のような手が弥彦の前髪を掻き上げる。
露わになった盗人の顔が思っていたより若いのに、千羽夜は少し驚いた。
他の血筋を加えない遠野の人間は、みな似たような顔をしている。それに比べて戸惑った表情を見せる目の前の青年は、見慣れた遠野の顔立ちではなかったのだ。
弓なりに上がった濃い眉に、鷹のように鋭い目。尖った鼻が月光に影を生む。
「えっ?あ……あぁ。俺は栖牙(スルガ)の人間だ」
どう反応していいのやらと濃い眉を下げては頭を掻く。千羽夜にはこの男が悪い盗人とは思えなかった。
「遠野の巫女には力があると聞いたんだ。半年前から謁見を頼んでたんだが、最近になって遠野の人間以外とは会ってくれねえと断られちまって……その……」
「ふむ。土とはかように和らげであったのか。月とはもっと冴え冴えとしておるかと思っていた」
弥彦の弁解に、遠野の巫女は全く興味がないらしい。子供のようにはしゃいでは当たり前のことに騒ぎ立てる。
「えっと……巫女サマは外に出たかったのか?」
無視されたことで弁解を諦めた弥彦は、首を傾げて尋ねてみた。巫女と言う重い名に似つかわしくない喜びように、どこか普通の娘の一片を目にした気がしたのだ。
あんな狭い場所に閉じ込められて、彼女はつらかったのではないかと。
「浚われて喜ぶ女がどこにいる。己の業を正当化するものでないよ弥彦。なじられる覚悟あって私を連れ去ったのだろう?」
ならば楽になろうと考えるな、と千羽夜は言った。厳しい言葉だがその声には全く棘がない。
弥彦の知るどんな女よりも白い彼女は、なお白い着物を翻して立ち上がった。
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