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「もう疲れは取れただろう?先を急がんのか?」
弥彦は再び頭を掻いて苦笑するほかなかった。
――――
遠野から栖牙までは歩いて十日はかかる。無我夢中で駆けてきた距離も、ふと思い直すと大層な道のりだったのだとわかった。
男一人の足ならいざ知らず、帰りは女を連れての旅ゆえか余計に遠く思われる。
また千羽夜は外に出たこともなければ土を踏んだこともない。己の体力を知らない彼女は、無理に歩いては熱を出して倒れるを繰り返した。
素直に音を上げる性質なら良かったものの、倒れる直前まで平気な顔を演じるのだから呆れる。
そして今日も、何の予兆を示すことなく倒れたのだった。
「なぜ一言つらいと言わない」
もうすっかり参ってしまった弥彦は、濡らした布を千羽夜の額に乗せながら唸った。おぶさることを嫌がられると、弥彦にはどうすることも出来ないのだ。
「何故?簡単なことだ。それは私が巫女であるから、人とは異なる生き物だからだ」
熱を持った頬を火照らせながらも、千羽夜は偉そうに淡々と応えた。長い黒髪が張り付き、彼女の表情を隠す。
“巫女だから”
その言葉に、弥彦は微かな違和感を覚えた。
弥彦が欲したのは、確かに尋常でない力を持つ巫女という存在であって、千羽夜という少女ではない。巫女という存在は人であってはならないのだ。
しかし、目の前で苦しげに息をつく娘。千羽夜はどう見ても自分と同じ人であり、自分よりか弱い女に見えた。
「俺は巫女が必要だった」
うなだれた弥彦の肩は、いつもの大きさを失ったかのように小さく見える。膝に乗せた拳は、戸惑いに震えていた。
「わかっている。理由は聞いていなかったな。だが出来うる限りのことはしよう」
こうもあっさりと願いを叶えようと言う。代々遠野を統べる神下ろしの巫女。彼女の小さな手は、あまりにも多くの願いを乗せている。
誰か一人でも、彼女の願いを聞いた者がいただろうか。
弥彦も千羽夜に会うついぞ前には、神の願いを考えるなどと馬鹿げたことを思いもしなかった。だが絶対的な偶像である神と思うには彼女はあまりに儚げだった。
それでも人という生き物は残酷で
「弟が倒れたんだ。憑き物の仕業で医者にもどうすることも出来ないと言われた。最後の家族なんだ……助けてくれ」
願を掛けられる存在にすがってしまう。
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