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儂らは敵の目を盗み、城から抜け出しました。礎に僅かに積み石の動く部分があったので、そこから。南の山を越えれば、加矢様の領地となります。
あの山は儂にとってはなんのことはない、一晩あれば充分に越えられる山なのですが、そのときは吉濃様もいらっしゃったからのう……。城から滅多に出たことのない吉濃様にはきつかろうて。儂がおぶろうかと申し上げても、「自分で歩かなければ意味がない」と一向に首を縦に振らんのです。いやあ、あのおっとりした吉濃様が彼処まで強情だったとは……。
もっとも、あの時無理にでも負うておれば、あんなことにはならんかったのやもしれませぬ。そればかりが悔やまれますわい……。
日が上り、人々が田畑を耕しはじめた頃でしょうか、吉濃様は突然短く悲鳴を上げられました。見ると太い木の枝が腿に刺さっております。鮮血が泥と返り血にまみれた着物を、更に色濃く染め上げてゆきます。儂は吉濃様を適当な窪みに隠し、袖を裂いて傷口を縛りました。
そこから動かぬよう申し上げて、血止めになる草を探しに出ました。しかしなかなかその草は見つからぬ。ようやく一株だけ見つけて摘んだのは、日もいい加減に傾き始めた頃でした。儂は急いで吉濃様のいらっしゃる窪みに戻りました。
果たしてそこに、吉濃様のお姿はありませんでした。この山に獰猛な獣が出ると聞いたことはありませんから、儂の帰りが遅いので探しに出たきり、入れ違いになってしまったのじゃろうと思いまして、山中を探し回りました。一昼夜、彷徨いました。そうして、空腹と疲れで倒れてしまったんじゃろうなあ……。吉濃様に会うことの出来ぬまま、儂は気付けばこの寺で介抱されておりました。
それが縁か因果か、儂は未だにこの寺で住職などして居ついておるのです。
それから一年ほど経った頃でしたか。儂は山中を流れる川に水を汲みに出ました。
桶にたっぷりの水を両手に提げておりますと、ふと美しい聲が聞こえてくる。天上の聲かとも思える、穏やかな歌聲でした。儂はその聲のする方へと引き寄せられました。
儂は聲の主を見て、息を飲みました。その周りには、死んで干からびた子を抱いた母猿だの、ひどく痩せて肋の浮いた狐だの、首だけの鹿だの異形が集うて、歌を聞いておるのです。そこを、蒼白い魂魄がいくつも飛び交っておりました。
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