そらをつかむ

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 嫁入りを明日に控え、姉と母はせわしなく動きまわっている。秀一はひとり蚊帳の外に置かれたように漱石を読み耽っていた。燈火管制のため黒い布が窓や電燈を覆い、薄い活字を判別するのも容易ではなかったが。  夜も九時を過ぎた頃、嫁入りの荷造りは一段落したようだった。大きな雑嚢ひとつに当面の衣類、生活に必要な細々したものなどが詰め込まれ、大きく膨らんでいる。明日の朝、駅までこれを背負って行くのは自分なのだと思うと、秀一は軽く眩暈を覚えた。  姉の嫁ぎ先は汽車で三時間ほど走った大きな港町だった。軍需工場がいくつも並び、戦闘機の部品や銃を作っている製鉄のまちとして知られている。 「お父さんやお兄ちゃんにも見せたかったねえ、頼子の花嫁姿」 「よしてよ。あんな地味な結婚式、人に見せられたもんじゃないわ」  母の沈んだ声に、頼子はいつもの調子で応える。男ばかりの兄弟の中で育った所為か、彼女は幼い頃からきかん気が強く、負けず嫌いだった。近所の男の子と取っ組み合いをしては、泣かせたこともある。歳が離れ、遊んでくれとは言い難い兄三人に代わり、秀一をかまってくれたのは頼子だった。弱虫でいつもいじめられていた彼をかばっては、男の子と喧嘩することも珍しくなかった。 「白無垢の花嫁衣装ならまだしも、角隠しにもんぺよ」 「頼子」 「おまけに、旦那と会ったのはお見合いと結納と式の三回だけ。明日嫁に行っても、旦那は明後日には南太平洋のどこだかへ出征するのよ。そんなの、結婚って言える?」  第一、私はあの人のこと好きでも嫌いでもない、と付け足して憚らない。母は何を言っても無駄だと言わんばかりに首を振る。秀一はその様子が何故かおかしく、思わず笑ってしまった。何がおかしいの、と頼子は冷たい視線を向けてくる。 「あんたには一生、私の気持ちなんて分からないわね。身売りされるのと一緒」 「ぼくは別に」  そんなつもりじゃない、と言いかけて口ごもる。頼子がとてつもなく意地悪く思えた。  躰が弱く、学業の代わりに課せられた畑仕事でさえ免除されるほどの秀一にとって、姉は庇護者であり、同時に迫害者だった。庇ってくれたかと思えば、その直後に更なる深みへと突き落とす。それは決まって、今のような表情をしている時だった。秀一は来る、と身構える。
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