469人が本棚に入れています
本棚に追加
「出征前にとりあえずって契られる私の気持ち、あんたに分かりっこないでしょ。悔しかったら、父さんや兄さんのように手柄のひとつでも立ててみなさいよ」
頼子は唇を吊り上げ、秀一の反応を伺っている。
五体満足でそれなりに健康であれば、赤紙ひとつで招集されて行く男たち。秀一の同級生でも、志願兵として大陸へ赴いた者も何人かいた。そういった社会情勢の中で、秀一のような者は負い目を感じない訳にはいかなかった。彼は、母が近所の小母さんたちに「秀一くんは志願しないの」と尋ねられるのを、何度もきいている。志願したところでどうにかなるものでもない、ということを分かっていて敢えて訊くのである。国の役に立たないことへの非難よりも、愛する息子を失う可能性がほとんどないことへの嫉妬がそうさせるのだ。
頼子はそういうことを全て分かった上で、このような意地悪い言葉を投げつけてくる。身内であるだけ、余計始末が悪かった。
「頼子、これを持ってお行き」
母はかくしから紫紺の別珍を貼った小函を取り出した。頼子はそれを受け取ると、長い指で蓋を押し上げた。あっ、と小さく叫び声を上げる。秀一も思わず姉の手元を覗きこんだ。
「これどうしたの?」
「私が娘時代に母親からもらったものだよ。いいかい、絶対人に見せるんじゃないよ。向こうのお義父さん、お義母さんにもだよ」
「分かっているわよ」
言った傍から頼子はいつになく慎重な手つきで小函から指輪を取り出し、左手の薬指にはめた。金剛石はごく僅かの光も反射し、仄暗い家の中では眩しく目を射る。
頼子はしばらく指輪をはめた手を天井に向け、眺めていた。結局、彼女は寝不足の浮腫んだ顔で、朝一番の汽車に乗り、嫁入りをした。
最初のコメントを投稿しよう!