ストックホルムシンドローム

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  薄暗いアパートの狭い一室で、その子は泣いていた。 白いタオルで口を縛られており、くぐもった泣き声しか聞こえない。 当初は大声で泣き叫んでいたが、今では時折嗚咽を漏らす程度に落ち着いていた。 うぅー、うぅー、と呻いている少女を見ながら、俺は電話の受け答えを再開する。 「いいか、お前らが理解するまで繰り返すぞ。五千万だ。五千万円ちょうど用意しろ。警察に伝えたら、大事なお嬢さんの命はないぞ」 震えた涙声で、娘は大丈夫なんですか、娘は、と壊れたスピーカーのような母親の相手をするのはどうも疲れてくる。 あまりにもうるさいものだから仕方なく、その大丈夫な娘の声を聞かせてやることにした。 これは俺の甘さと独断であるので、仲間には内緒にしろよ、と出来るだけ相手を威嚇する声音で少女に言い聞かせた。 小刻みに頷く少女の小さな口から、タオルを取る。 少女の目から流れた水分で染みたタオルと彼女を、細い唾液の糸が繋いで、切れた。 電話を手渡すと、静かに泣いていた少女は堰を切ったように泣きわめいて母親を呼んだ。 「お、お母さん、お母さん!助け、て、助けて!」 怖いよと訴える娘を、電話線の向こうで、母親は慰めているのだろう。その姿を見ると、胸が痛んだ。 俺にも娘がいたなぁ、と思い出す。 親バカながら可愛い娘だった。 愛する娘と妻のいた世界で、俺は一般的で、しかし最高の幸せの中に浸っていた。 それがどうだ。 神様とかいう阿呆が大切な二人を人質に、拉致してしまった。 未だに、身の代金の請求はこない。 それがたとえ大国の国家予算級の値段だとしても、俺は永遠をかけて払う覚悟はとうの昔にしているというのに。 自分の娘ではない少女から電話を取り上げる。 この母親はバカだ。 俺なら五千万円など安い、早く娘を助けてやればいいのだ。 電話なぞで声を聞いたくらいで安心するのは愚かすぎる。 荒々しく、後ほど連絡する旨を伝え、電話をきった。 ソファに寝そべる仲間を伺いながら、少女に再度タオルを巻いた。 まだ仲間のうちの一人は寝ていた。 他の仲間はコンビニに行くなどという馬鹿馬鹿しい理由で外出するし、俺は刑事に尋問を受ける自分を想像せざるを得なかった。  
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