第一章 ~九尾の狐~

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 なんでも、春が在る地域があるらしい。  松尾芭蕉(まつおばしょう)がその話を聞いたのは、大垣(現代の岐阜県)の旅館であった。  春が在る? そんな奇怪しな所があるものかと、芭蕉は女将の話へ冷やかな笑みを浴びせた。  何故ならここ数年、この国には冬しか訪れなかったのだから。他の季節は風邪を拗らせた様に、姿を見せはしない。  動植物は次第に息絶え、人間さえ種存続の危機に襲われている。  芭蕉と曾良も、一日二食なんて贅沢は稀と言える生活を送っていた。  だが事実、芭蕉が飢えているのは、食物云々ではなく目新しい情景であった。右を見れば雪が積もっていて、左を見れば雪が融けている。足で雪を踏み、傘に雪を受けるのが年がら年中続き、そして終わる気配も無い。  様々な景色を『雪』という題で比較出来るのは中々興があったが、それにしても、同じ様な色彩ばかりが眼に焼き付く。  自分の俳句共が異口同音の嵐に見え、芭蕉は軽い鬱に入ってしまうこともあった。 『奥の細道』と称して行なった、この自分自身への挑戦と言える旅は、終局にしようかと思っていた所なのだが。  この日本の何処かに、『春が在る』だって? 在り得ない――と芭蕉は思う。 だがそう思いながらも、芭蕉の脳は否定ばかりしている訳でなかった。芭蕉の心は少なからず、いや、既に全面積をそれに魅せられていた。
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