春の序章 ~九尾の狐~

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 昔々の、事であった。  春は曙とは恐ろしい程に的を射た言葉だということが、この田舎の情景を見れば尚更理解できる。  小野小町の吐いた息、雪舟が描いた朝靄の様な、なんとも美しい霧雨が舞い散る田の上。鮮やかとも淡い色合いをしているとも言えるこの空間には、場景に余りにも似合っている、モノが在った。  そのモノは、赤く煌びやかな着物を纏っている。その美麗さといったら、雨に塗れた椛以上だ。そしてその十二単を思わせる厚い布には、所々、煌々と燃えている箇所があった。  焼ける和服。和服の炎。  揺れる紫色の火は、着物から生えた指が蠕いている風に見えた。細くも重そうな火の姿は、不気味にして美しく、気体の花弁とでも形容出来る程優雅だった。  そして、その燃える着物を特に気にかけず佇む、気だるそうなモノ。何やら憂いを秘めた表情をした、狐であった。  だが、成人女性程の体躯を持ち、九つの尾を持つ獣をそう呼んでいいのだろうか。  ――この獣は獣でなく、この狐は狐でなかった。妖怪。その名は、九尾の狐といった。  黄金の体毛は、蛍石の様に、隠れた輝きを持っている。だが、肉体から僅かに放たれている橙色の光は、霧の中に吸い込まれている様で。  さながら、霧雨に体力を奪われている風に感じられた。  しかし、九尾の狐は雨如きには動じず、脳髄を後悔一色で包んだ様に、ただ過去を悔やむ様に、直立している。   卯月経て    あへる桜時雨にて      吹かば散りなむ     風のまにまに  唐突に、【妖怪】の喉から、蚊の鳴く様な声が響き出した。しかしその小さな音は、粒子程の雨、珠玉一つ一つに伝わり渡っていく。  鏡の音、とまで言える程に、声は柔らかく反芻していった。  決して、露のようには消え入らず、確固とした存在感のある、和歌だった。
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