第二節 ~九尾の狐~

2/5
前へ
/38ページ
次へ
 運び終わり川へ戻ってきた途端、芭蕉に凄まじい音圧が襲い掛かってきた。  上品でいて滑らかな、琴の音である。しかし、ひたすらに音が大きい。そして恐ろしい。人間が数分耳を傾ければ死に至ってしまう様な曲調だった。  それは、川の上で舞い踊る九尾の狐から弾き出されていた。手に持つのは、人間の背丈とは比較するまでもなく長い日本刀。  そして獲物は、宙に幾つも浮遊している琴、の様な鉄板であった。  舞踊さながらに琴の間を舞い、大振りで刃を絃に当てていく。騒然と鳴り響いていく琴の音は、妖怪の音として極めて相応しいものであった。  耳を塞ぎたくもなる音だが、何処か聞き惚れてしまう魅力がある。  芭蕉は雑音にして奇麗なるこの音響に、感動を覚えずにはいられなかった。  芭蕉はいそいそと懐から筆と紙を取り出す。全く濡れていない。なんとも、流石妖怪といったところか、と芭蕉は九尾の狐に畏敬の念さえも抱いた。  しかし、それ以上に憤怒の心を燃やしている。だがそんな芭蕉へ、一つ和歌が届いた。     幾年か   そなた侍りて居ぬ着物      歌ひ給ふ       されど拝みて  手前待ち草臥れたわ。はよ詠わんかい。  芭蕉はその詩を真摯に受け止め、鼻を尖らせ、口を開け、目を見開き、この【春】全てを感じようとした。  春を俳句へ閉じ込み、この空間から奪う様な。妖怪から季節を抜き取る様な良句を、詠まなければ――いや、詠むだけ、それだけでいいのだ。  芭蕉は深く春の空気を取り込み、酒の香ばしさに心落ち着かせ、どの様な風情にも隠れない飛び切り上等な琴の音を感じ、詠った。
/38ページ

最初のコメントを投稿しよう!

17人が本棚に入れています
本棚に追加