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「おい! ちょっと待て!」
芭蕉が叫んでも、九尾の狐は止まらずに消え入っていった。空へ向かい、何かすっきりとした表情で昇っていく。
芭蕉は先程まで川の在った窪みで、先程基角が飛び込んだ、何も無い窪みの上でひたすらに叫び続ける。
しかし九尾の狐は、戻ってはこなかった。
嗚呼、と芭蕉は憂いを嘆く。霧雨に光るこの虹を、一緒に見たかったのにと心寂しく思った。
『御元気で』
それが、妖怪の最後の言葉だった。人間が「和歌を詠ってくれよ」と頼んでも、妖怪は頑なに否定し、そう言い終わると消えていった。
儚さで作り上げられた様な淡い虹が、山より低いところで浮かんでいる。
朝靄の様な、春の曙に見られるこの光景が、全国へ溶け出す様な雰囲気を、芭蕉は見た。
小さな雫が世界に舞い、ほととぎすが鳴き、桜が咲く。何処からか、御淑やかな琴の音がした。
色彩豊かな【春】に芽生える、この季節に相応しい、何とも妖しく、微笑ましい音色だった。
手前虹
虫に混じりて 光追う
手前の琴、中々じゃねえか。綺麗で上品が、やっぱり春には合う。また次の季節にでも、常識外れの轟音を、聴かせてくれよ。暴れた音楽っていうのも――嫌いじゃない。
芭蕉は虹に向けて、その句を詠んだ。
虹が、静かに笑った気がした。
【春】――了――
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