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昔々の、【事】であった。
夏は夜という言葉も、如何に賞賛すべきか凡人には思い付かない程、素晴らしく冴えた言葉だ。この山も例外でなく、上々の趣を感じさせた。
木々の隙間から地を射す月明かりや、小川周辺で遊んでいる蛍の光は何とも言えない。
その光景の中に、雑草を踏み締める少々異様な【モノ】が在った。
落ち武者の如く汚れている着物を纏い、肌蹴た胸元からは深緑色の剛毛を見せている。
異国人の様に絡み合った、無精な金髪は然程長くは無い。
しかし、この赤い鼻はそれに比較せずとも長すぎだ。
真っ赤な顔の中央に、やたらと長い鼻を持つこの妖怪は、【天狗】であった。
太い眉を互いに寄せ、なにやら考え事をしている風に見える。いや、ただ、生まれついてその様な面持ちなのかも知れないが。
――突然、日中の暑さを忘れたこの山が、おぞましい程の湿気と熱気で溺れていった。
文字通り羽を休めていた小鳥達は慌て、丑三つ時だと寝ていた草木も火が付いた様に起き上がる。
突風が吹いたとしても、これ程までにこの山が揺れることはなかっただろう。
「風に胸を預けんと」
蚤が鳴いた様な天狗の声が、木に止まっていた虫共を落とした。
「虫が我に傾かんと」
無様な羽音と共に飛び立った鳥達も、山から離れる前に地へ落ちる。
「ただ、鳥の儘に」
天狗の声に、山は枯れていった。
短い草も長い草も、胎児に戻るかの如く自ら土へ潜り込む。
若い木も古い木も、螺旋状に捻られ、捻られ、細くなり、蚤の悲鳴よりも小さな悲鳴を上げながら、捻られ、破裂していった。
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