夏の序章 ~天狗~

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   山全体の。山の全細胞が壊されていく。蒸し暑い天狗の鬼気により、大木が一斉に粉砕されていく。  木片が散っていった。若い葉が無残に舞っていった。 「自然よ」  ぼやき続ける天狗の口元は、奄々と燃える火の如く吊り上っていく。赤い頬は痙攣し、不釣合いな漆黒の瞳からは――奥の闇が見えない程黒く、硬い涙が止め処なく溢れ出していた。  まるでその雫は、影が熔けて出来上がった溶岩の様な、液体の中で最も形容し難いであろう、硬質の水滴であった。 「感謝する」  罅割れた地面に染み入っていく涙を隠そうとせずに、天狗は告げた。  天狗はそっと、緑色の右手から、優しげな光を放つ。それは、二匹の小さな蛍であった。  清閑とした空気に在るその光は、恐る恐るだが、確実に段々と、輝きを増していく。  しかし熾烈なまでに発光し――瞬く間にそれは、眼に保養を与えるものから、害を及ぼすものにまでに変化していった。  鋭い光。槍の様な光。矛が大気の闇を、無常に刺し殺していく。  浮かぶ二つの凶器を見詰めていたかと思えば、天狗は狂った様に突然、両手で勢いよく潰した。  蛍は悲鳴を上げないようで、この山にはただ銃声の如き手打が響く。  そして天狗は、重過ぎる、呻き声とも捉えられる笑い声を上げた。  粘り気のある声を喉に滑らせながら、【妖怪】は小川のあった場所へと、つむじ風の如く疾走した。  最早そこに、水はない。あるのは、戸惑う様に飛び交う蛍の光だけだった。
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