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妻は返事をしない。
「おい!」
男はさらに、大声を出した。妻が眉間にふかい縦皺をつくって、目をあけた。「あ、おかえりなさい。誠さん」「腹減った。メシはどこだ」「……」妻の眉間の皺がさらに深いものになった。「ありません」
すがすがしいほどキッパリとした返事だった。
男は、ちょっと気圧された。が、亭主が仕事から帰ってきたのに、食事の仕度も出来てないでは、いくらかつての恋女房とはいえ、文句のひとつも言いたくなる。「なんで無いんだよ」
「今日のお昼、久しぶりに由紀さんとお食事しましたの」
由紀、というのは、愛の友人で、政財界の黒幕、蔵王権太の奥さんである。セレブな有閑マダムで有名な女だ。
「だから、それと亭主のメシがねえのと、何の関係があるってんだ?」
男いやここからは名前で呼ぼう、太賀誠は、妻早乙女愛の布団わきにあぐらをかいて腕組みした。「オラァ一日働いてくたびれて帰って来てるんだぜ!その亭主を出迎えもしねえ、メシも用意してねえ、それでテメエはセレブとお食事だ。えっ?おかしかねえかい、愛よ」「誠さん!」愛はいきなり起きあがった。「昔の誠さんはそんな事を言うひとじゃなかったで「何だよイキナリ」
「あの頃の誠さんは、いつもギラギラ輝いていたわ。最初に長野から東京にお呼びして、夕食をご一緒した時、それからあとは、あなたがご飯を召し上がるのなんて、ただの一度だって見た事がありませんでした」
「それはメシ喰うところが出てこなかっただけだろう!普通、人間はメシ喰わなきゃ死ぬだろうがよ」
「あなたはタフでした」
愛は遠い目をした。「由紀さんと朝帰りをなさった、あの時も、自動車修理工場の他人の車を一晩中のりまわして、朝食もおとりにならずに…」
「ああもう!何かと言ったら、その話だ。俺ァ、由紀とは何でもねえよ!それに、学校の学食でマジメ学生ひっかけて、いつもタダメシ喰ってたんだぜ?お嬢さん育ちのおまえには想像もつかない、ひでえ食生活だったんだ」
「由紀さん、いまだに誠さんの話をするわ」
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