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織田信張
織田信張(大永7年1527~文禄3年9月22日1594.)
父:織田寛故
母:斯波玉堂殿
兄弟:織田寛維・飯尾常知
妻:織田信康女
子:織田信直
名:寛廉・信張(名は他に、信純・信弘があるようだが、まだ実見していないため除く)
別名:又六郎・太郎左衛門
戒名:長興寺月虎宗乙居士
官職:従五位下、左兵衛佐
尾張国小田井城主。
はじめは、織田信秀の弾正忠家とは対立関係にあったが、いつの頃かは不明だが、弾正忠家の信長に従っている。
信張がいつ頃信長に仕えたかについては、弘治2年(1556)7月に、信長が盆踊りを主催した時、信張の家来衆が地蔵に扮したとの記述が太田牛一の『信長記』にあるため、この前であるとの予測が付く。父の寛故から跡を継いだのが、遅くても天文19年なので、その間の事とも考えられる。
信張は、信長に従い各地を転戦したと思われるが、連枝衆である事を考えると、数千人規模の兵を率いて信長本陣を固めていたと思われる。
天正五年の紀州雑賀攻めの際には、佐野砦を守り、「雑賀に動きがあれば知らせるように。それに合わせて、こちらも軍を動かす」との信長からの指示を受けている。
その後は、蜂屋頼隆と共に、岸和田城に詰めて、雑賀衆などの紀伊国人衆との対応にあたっていた。和泉半国を領していたともされる。
鷺宮に移った顕如の祐筆である宇野主水とも交流があった事が窺える。
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