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【終】
都で『あはれの歌仙』坂上裄平が失踪したという噂が囁かれるようになったのは、それからしばらくしてからだ。
地方の豪族に見初められ婿に迎えられたのだの、俗世をはかなんで出家しただの様々な憶測が飛び交った。
しかし、真相を語る者は誰ひとりとしていなかった。
「坂上殿はどうなさったのでしょうか?」
真明は杜若(かきつばた)色の水干の襟元を少し緩めながら言った。
太陽がじりじりと肌を焦がすように照り付けている。
生き急ぐ蝉の鳴き声が競うように木々にこだましていた。
「……さあな。興味ない」
吉昌は汗ひとつ浮かべておらず、涼しげに答えた。
二人の前には蓋をされた古井戸がある。
あの悍(おぞ)ましい悲劇の餌食となった姫君達が打ち捨てられた井戸だ。
今日はその御霊(みたま)の供養のために訪れたのだった。
吉昌曰(いわ)く、「怨霊になられたら仕事が増える」かららしい。
(どこまで本気なんだか……)
真明は静かに井戸を見つめる吉昌を見やった。
整った顔立ちには相変わらず何の表情も浮かべてはいなかった。
「ときに、陰陽頭殿。聞けば、陰陽頭殿は内裏では歌仙と並ぶほど歌がお上手だと言われているとか。是非私にもひとつ詠んでいただきたいものです」
気持ちを切り換えるように、明るく真明が言う。
もちろん、裄平の歌を封じるほどの歌に興味があった。
吉昌は真明をちらりと一瞥すると、
「常ならず
もの思はする
うきよなれど
なおたわむれる
むじななりける」
〔無常で憂鬱な世の中だが、狸は元気に跳び回っている〕
と詠みあげた。
「………陰陽頭殿」
「何だ」
「……狸とは私のことですか?」
今度は意図的なものを感じ、真明は恐る恐る尋ねた。
「そうだ」
きっぱり断言する吉昌に、真明はがっくりと肩を落とす。
吉昌はあくまで真明を狸に例えたいらしい。
「……もう、良いです」
最近似たようなことがあったなと思い出しながら、いじける真明。
いつもは堅く結ばれた吉昌の口元が少しだけ緩むのを見逃してしまった。
【第二章・完】
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