【第三章】 左近衛少曹、後神に引かるる語

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【弐】 吉昌が朱雀門を出ると、男が目の前に飛び出してきた。 この不意打ちに吉昌は足を止める。 「陰陽頭、安倍吉昌殿とお見受けします!」 褐衣(かちえ)を身に着けていることから、近衛府の武士(もののふ)だろう。 齢は三十ほど、中肉中背に平凡な顔立ちをしていた。 男は勢い良く飛び出した割にはおどおどと言葉を続ける。 「あ、あの、私は左近衛少曹(さこのえのしょうそう)を務めております、橘惟次(たちばなのただつぐ)と申しまする」 近衛府でも低い官位とはいえ、都の警護を務めているとは思えない腰の低さだ。 「いかにも、私が安倍吉昌だが……」 「ああっ、吉昌殿!実は折り入ってお願いしたいことがございます!」 橘と名乗った男は懇願するように、両手を合わせた。 吉昌は本日何度目か分からぬため息をつく。 「……何だ」 断られることを覚悟していたのか、惟次はぱあっと顔を輝かせた。 「はい!……実は私の妻、秋野(あきの)の様子がおかしいのです。寝付いた夜中に、何やらぶつぶつと寝言を言うのですが……」 吉昌はため息を繰り返す。 「それはよくあることでは?」 「私も当初はそう思っておりました。むしろ、微笑ましくさえ思い、聞き耳を立てていたのです」 ここで惟次は辺りを憚るように、声の調子を落とした。 「ところが、聞こえてきた声は妻のものとは違うしゃがれ声でした。それも『あな悔しや、あな恨めしや』と繰り返しているのです。驚いて起きあがってみると、妻はいつも通りすやすやと寝息を立てていました」 惟次はがっくりと肩を落とし、両手で顔を覆った。 「もうひと月近くも続いております。先日などは、『屠(ほふ)ってしまえ』とおぞましい言葉を吐いておりました。普段の妻はおだやかで、よく尽くしてくれる良い女なのですが……。恐ろしくて恐ろしくて……もうどうしたら良いのか分からぬのです」 うなだれる吉昌は何事かを考え込むように黙したあと、淡々と告げた。 「では、今宵北の方の様子を見に参ろう」 「あ、ありがとうございます!」 惟次はほっとしたように笑顔を浮かべると、何度も礼を繰り返した。 ※朱雀門…内裏の正門 ※褐衣…武士の服装 ※近衛府…都の警護にあたる部署 ※屠る…殺す
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