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【弐】
吉昌が朱雀門を出ると、男が目の前に飛び出してきた。
この不意打ちに吉昌は足を止める。
「陰陽頭、安倍吉昌殿とお見受けします!」
褐衣(かちえ)を身に着けていることから、近衛府の武士(もののふ)だろう。
齢は三十ほど、中肉中背に平凡な顔立ちをしていた。
男は勢い良く飛び出した割にはおどおどと言葉を続ける。
「あ、あの、私は左近衛少曹(さこのえのしょうそう)を務めております、橘惟次(たちばなのただつぐ)と申しまする」
近衛府でも低い官位とはいえ、都の警護を務めているとは思えない腰の低さだ。
「いかにも、私が安倍吉昌だが……」
「ああっ、吉昌殿!実は折り入ってお願いしたいことがございます!」
橘と名乗った男は懇願するように、両手を合わせた。
吉昌は本日何度目か分からぬため息をつく。
「……何だ」
断られることを覚悟していたのか、惟次はぱあっと顔を輝かせた。
「はい!……実は私の妻、秋野(あきの)の様子がおかしいのです。寝付いた夜中に、何やらぶつぶつと寝言を言うのですが……」
吉昌はため息を繰り返す。
「それはよくあることでは?」
「私も当初はそう思っておりました。むしろ、微笑ましくさえ思い、聞き耳を立てていたのです」
ここで惟次は辺りを憚るように、声の調子を落とした。
「ところが、聞こえてきた声は妻のものとは違うしゃがれ声でした。それも『あな悔しや、あな恨めしや』と繰り返しているのです。驚いて起きあがってみると、妻はいつも通りすやすやと寝息を立てていました」
惟次はがっくりと肩を落とし、両手で顔を覆った。
「もうひと月近くも続いております。先日などは、『屠(ほふ)ってしまえ』とおぞましい言葉を吐いておりました。普段の妻はおだやかで、よく尽くしてくれる良い女なのですが……。恐ろしくて恐ろしくて……もうどうしたら良いのか分からぬのです」
うなだれる吉昌は何事かを考え込むように黙したあと、淡々と告げた。
「では、今宵北の方の様子を見に参ろう」
「あ、ありがとうございます!」
惟次はほっとしたように笑顔を浮かべると、何度も礼を繰り返した。
※朱雀門…内裏の正門
※褐衣…武士の服装
※近衛府…都の警護にあたる部署
※屠る…殺す
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